【相場懐古】山一證券破綻の日
1997年の今日。
4大証券の一角であった山一證券が自主廃業という形で破綻した。
4大証券の一角が破綻するなんて想像もしたことはなかったし、市場も自分も大きく動揺した。
その頃のことは若干、マーケットフォーラムのことを書いたときに触れてるけど、せっかくなんで回想してみようと思う。
当時、自分は移籍をした証券会社で若手ディーラーとして懸命にやっていた頃だった。
まだ枠も小さく、十分なリターンは取れていなかったけど、明日の自分の為にどんなことでも学び、色んな意味で貪欲だった。
今では誰も信じてくれないかもしれないけど、飲みもチームでの飲み以外はほとんどいかず、一日中仕事と勉強に明け暮れていた。
当時、「不良債権」やら「飛ばし」やらバブル崩壊の後遺症に苦しむ日本の金融機関が多く「あそこがやばい」「ここがやばい」なんて噂もチラホラ。
護送船団方式が崩れ去り、傷ついた財務状態の中で競争にさらされた金融機関。
「金融ビッグバン」が1996年に始まり、弱いところは市場の攻撃にさらされた。
株価の下落。特に100円を割り込んでくると、市場の目はかなり厳しくなる。
証券各社は取引先や、株主や、社員なども総動員して100円死守しようと必死だった。
山一證券もそのひとつ。
しかし、一週間前に北海道拓殖銀行の破綻があり、株価を支えきれず、株価下落⇨経営不安⇨資金繰り困窮という悪循環に陥り始めていた。
あるときウチのチームに山一證券のCBを買いとってくれないか?という打診が外資系証券からきた。
CBのボラティリティ・トレードなんかをやっていたため、担当していた若手に取れるならプライスを出すようにチーフから指示が出た。
基本的にCBを買って、その株式を空売りするの戦略なのだが、山一證券の株を売れないまま、CBをかなり安いビッドでその後輩は出さざるをえなかった。
かなり安い値段。当然、後輩は相手がOKするとは思っていなかったようだ。
しかし即座に…「Done」
後で思えば、いくらでもいいから売りたいというオーダーだったのだろう。
山一證券が破綻したのはその週末のことだった。
それが1997年11月22日。
午前3時頃に「山一證券、自主廃業へ」の速報が流れる。
さすがにみんな危機とは知っていても、最後は国が手を差し伸べるだろう。とタカをくくっていた人も多かったはず。
3連休の土曜日未明に発表されたため、その週末にはチーフの家に緊急召集。
山一系列の地場証券だったため、自社もどうなるか分からないと。
そしてポジションを速やかにとじ、この嵐を会社が乗り切れるか見守るしかないとのこと。
最悪のケースも十分想定されるが、その場合、チーフと共に他社に移れるのは二人まで。
もちろん若手の自分はその二人には入っていなかったはず。
業界にたいして知り合いもいない自分は不安でしょうがなかった。
これまでの努力がこんな形で終わりを迎え、道を閉ざされるのか…。
再就職は出来るのだろうか?
若手でポジション枠も小さく、システムができた為に裁定取引のシステムやExcelでの分析プログラムなどの構築もさせられていたため、移籍するにも十分なレコードとは言えなかった。
不安な一週間が過ぎた。
会社は辛うじてメインバンクの支援で持ちこたえた。
でも若かった自分にとって、この世界で生き抜くことの厳しさを教えてくれた出来事だった。
4大証券の一角であった山一證券が自主廃業という形で破綻した。
4大証券の一角が破綻するなんて想像もしたことはなかったし、市場も自分も大きく動揺した。
その頃のことは若干、マーケットフォーラムのことを書いたときに触れてるけど、せっかくなんで回想してみようと思う。
当時、自分は移籍をした証券会社で若手ディーラーとして懸命にやっていた頃だった。
まだ枠も小さく、十分なリターンは取れていなかったけど、明日の自分の為にどんなことでも学び、色んな意味で貪欲だった。
今では誰も信じてくれないかもしれないけど、飲みもチームでの飲み以外はほとんどいかず、一日中仕事と勉強に明け暮れていた。
当時、「不良債権」やら「飛ばし」やらバブル崩壊の後遺症に苦しむ日本の金融機関が多く「あそこがやばい」「ここがやばい」なんて噂もチラホラ。
護送船団方式が崩れ去り、傷ついた財務状態の中で競争にさらされた金融機関。
「金融ビッグバン」が1996年に始まり、弱いところは市場の攻撃にさらされた。
株価の下落。特に100円を割り込んでくると、市場の目はかなり厳しくなる。
証券各社は取引先や、株主や、社員なども総動員して100円死守しようと必死だった。
山一證券もそのひとつ。
しかし、一週間前に北海道拓殖銀行の破綻があり、株価を支えきれず、株価下落⇨経営不安⇨資金繰り困窮という悪循環に陥り始めていた。
あるときウチのチームに山一證券のCBを買いとってくれないか?という打診が外資系証券からきた。
CBのボラティリティ・トレードなんかをやっていたため、担当していた若手に取れるならプライスを出すようにチーフから指示が出た。
基本的にCBを買って、その株式を空売りするの戦略なのだが、山一證券の株を売れないまま、CBをかなり安いビッドでその後輩は出さざるをえなかった。
かなり安い値段。当然、後輩は相手がOKするとは思っていなかったようだ。
しかし即座に…「Done」
後で思えば、いくらでもいいから売りたいというオーダーだったのだろう。
山一證券が破綻したのはその週末のことだった。
それが1997年11月22日。
午前3時頃に「山一證券、自主廃業へ」の速報が流れる。
さすがにみんな危機とは知っていても、最後は国が手を差し伸べるだろう。とタカをくくっていた人も多かったはず。
3連休の土曜日未明に発表されたため、その週末にはチーフの家に緊急召集。
山一系列の地場証券だったため、自社もどうなるか分からないと。
そしてポジションを速やかにとじ、この嵐を会社が乗り切れるか見守るしかないとのこと。
最悪のケースも十分想定されるが、その場合、チーフと共に他社に移れるのは二人まで。
もちろん若手の自分はその二人には入っていなかったはず。
業界にたいして知り合いもいない自分は不安でしょうがなかった。
これまでの努力がこんな形で終わりを迎え、道を閉ざされるのか…。
再就職は出来るのだろうか?
若手でポジション枠も小さく、システムができた為に裁定取引のシステムやExcelでの分析プログラムなどの構築もさせられていたため、移籍するにも十分なレコードとは言えなかった。
不安な一週間が過ぎた。
会社は辛うじてメインバンクの支援で持ちこたえた。
でも若かった自分にとって、この世界で生き抜くことの厳しさを教えてくれた出来事だった。