【ビジネス】ディーラーという仕事の変遷②
山一ショック。
1997年に当時四大証券と呼ばれた大手証券の一角であった山一證券が自主廃業に追い込まれました。
山一ショックの時の自分のことは【回想録】で触れているので割愛します。
まだその時代の証券界は透明性・公平性に欠けるところがあり、証券不祥事がしょっちゅう新聞を賑わせていました。
利益供与、総会屋との関係、営業マンの不祥事、会計上の不祥事(飛ばしなど)…etc。
『アンコ』って言葉聞いたことありますか?
ある銘柄を買って保有しているうちに株価が上昇して評価益が出る。ある程度上がったところで同じ銘柄を同数空売りを入れてツナグ。あえて反対売買の売りとせずに新規買いと新規売りを組み合わせて評価益を確定的に保持しておくやり方です。
まぁその目的は様々でしょうが、ディーラーにとってはそれを持っておくと、先々不調になったときにその銘柄をクロス振って益出しすることで損をカバーできたりしまするので心理的な安心感にはつながります。
そんな便利なはずのアンコですが、自分が若手の頃に配属された部署では『逆アンコ』というものが存在していました(決して法的に不祥事ではないですが、非常によくないことです)。
まだペーペーの頃は全く知らず、伝票整理したり、損益計算やポジションの報告書作成させられていくプロセスの中で『コレ何ですか?』と上司に聞いたところ、とても気まずそうな顔されたのを覚えています。
『歴代のディーリング部長が作った逆アンコ…。』
要するに部長自ら相場張りたくなって(当時は結構多くの証券で社長や部長が自分で相場張ってたりしていた)、やってみたらヤラレになって、決済せずに逆アンコにして実現損を出すのを先延ばしにして、自分の責任になるのを誤魔化そうとした…ってとこなんでしょうね。
『ありえない…。この損は誰が責任取るんだろう?』
若手ながらに思ったものです。
結局、自分の直属の上司がその整理をさせられていました。自分で利益を出しては逆アンコを減らしていく。
ひどい話です。
その頃の証券会社の自己売買部門は緩いっちゃあ緩い。
だからそんなこともあったのです。
ただ色々と緩いだけに勢いもありました。
リスク管理やコンプライアンス管理もそこまでリアルタイムの精度を求められないから、かなり場中は自由でした(もちろん作為的相場形成や相場操縦はダメですよ)。
当時、自分もオーバーナイトはこの範囲でやりなさいと言われていましたが場中のポジション枠ってある意味自由だった時期があります(具体的な枠設定がない)。
伝票手書きで、全てを手動でやっている以上、その管理だって手動だったし、限界がありましたから。引け後のポジションを確認してルールを守らせる程度しかできなかったというのが実態でしょう。
だからオーバーナイトでは1億円の枠しかなくても、場中はめいっぱい勝負しにいって月間数千万の利益を上げるなんてこともそう難しくはなかったのです。
ごっつい先輩ディーラーなんて
『その売り板(全部)買う!』
なんてアホな注文の出し方してました(^^;
それが簿価としていくらになるのか?
リスクとしていくらになるのか?
なんてことはあんまり考えていなかったのかもしれません。
『ここぶち抜いたら吹くぞ。』
しか頭になかったのでしょうね(^^;
でもそんなちょっとキチガイじみた、でもすげー勢いのある先輩達が何人もいたものです。
そして手口はリアルタイムで公表されていました。
だから大口注文入ると『○○(銘柄)、○○証券100万買いっ!』なんて実況中継が入っていたり。
取引所で湧いている銘柄のブースには各証券の場立ちが殺到し、押し合い圧し合い注文の取りあいをしている。
場立ち出身の人たちは高学歴よりも、身体が大きかったり、体育会系出身の人が重宝されました。
肉体のぶつかり合いで負けない根性持っているヤツが大事だったのです。
場立ちの人は大口の注文が入りやすい大手証券や外資系証券の場電を見ながら、少しでも大口注文が入るのをイチ早くキャッチしようとしている。
自分も先物オプション課配属でしたが、上司の教育方針で二週間だけ立会場で研修させてもらったことがあります。
あの熱気と緊張感、迫力は一生忘れないでしょう。
ぶつかり合いの中で時々ケンカも起こる。
それでも各社の場立ち同士仲がよくて、飲みにいったりもする(とても激しい飲みです…)。
すごい豪快でしたし、そして何よりも家族的な繋がりを持っている人たちでした。
その後、所属部署に戻ってオフィスで取引していても、放送で大口の買い注文が入るとフロアの中で拍手が起こったり。
市場の熱気を肌で感じられた時代でした。