【マーケット】SGX日経225先物上場30周年
今日SGX日経225上場30周年のイベントがある。
自分がその取引を始めたのは1990年代前半のことだ。
20数年前、まだSGXではなくSIMEX(サイメックス)と呼ばれていた頃の話。
その頃はまだフロア(立会場)があり、ラインハンドラー(場電)と呼ばれる人間がヘッドセットをしながら顧客と電話をつなぎ、場況を伝え、売買を取り次いでいた。彼らのようなラインハンドラーがぐるりとフロアを囲み、その真ん中にはオーダーフィラー(場立ち)がいた。ラインハンドラーが顧客から注文を受けると手サインでオーダーフィラーに伝え、オーダーフィラーが他のオーダーフィラーが持っている注文を見て捌いていく。
この時代はラインハンドラーとオーダーフィラーのスキルがとても重要だった。彼らが上手いか下手かで捌けるオーダーも捌けなくなる。日系の証券各社の先物ディーラーの間でラインハンドラーの取り合いなんてしょっちゅう起きていた(笑)
アテにしていたラインハンドラー取られて他社のディーラーに抗議の電話している上司の姿を今でも覚えている。
自分にとってはラインハンドラーのR(イニシャル)、オーダーフィラーのKが最高のパートナーだった。彼らにつないで注文を捌けなかったら、それは自分の判断が悪かったと思える。それぐらい絶対的な信頼を置いていた。
ラインハンドラーがフロアを囲み、そして当然他社のラインハンドラーの動きも見える。どのラインハンドラーがどういった顧客を持っているかも大体バレている。結果、大口の注文出すところとかは注目されている。
自分が若手の頃は全く気にもならなかったけれど、それなりの玉を出すようになってからはかなりウザかった…。
自分はポジションとってから、反対注文(利食い)の値段は決めてあるので大体そこに注文を出しておく。その5円手前でよく止められることが多かった。
「また止められてるよ。工藤さん、いいところに指値出し過ぎね。」
そんなことをよく二人(RとK)からよく言われていたっけ。
そこで自分は10円のバッファをRに預けることにした。
その指値から10円の範囲ではRの判断で捌いてもらっていいよと。
それぐらい信頼をおける関係だった。
今では彼女はウチのシンガポールディーリング室を支えてくれるメンバーでもある。
そして5円手前でしょっちゅう止めてくれたローカル(現地のトレーダー)は今でも飲みに行くし、家族ぐるみでも会う仲だ。しのぎを削りあい、戦った相手ではあるけれど、互いにリスペクトし、仲もいい。あの頃の市場にはそんな人間のつながりが確かにあった。
ちなみにそのローカルは今でも語り草になっている。ブラックマンデーの日、日経225先物を5000円で買った人物だ。翌日が19000円だったのだから信じ難い話だろうが、当時はサーキットブレーカーも値幅制限も整備されておらず、市場がパニックに陥る中で出されたマーケットオーダー(成行注文)はそこでそのローカルに拾われた。そして一夜にして大金を得たのだ。
SGX日経225先物で最も大きな出来事といえば『ベアリングス・ショック』だろう。
たった一人のトレーダーの手によって200年以上の歴史を誇る英国の名門銀行が破たんに追い込まれた。
その舞台となったのがこの先物だ。
当時まだ自分は若手だった。
オプション・ディーラーとしてトレードをし、先物は多少のアウトライトとオプションのポジションに対するデルタ・ヘッジなどを主目的に使うことが多かった。
確かに異常だった。
現物株がズルズルと下げていく。
当然、原資産が下がるのだからその指数先物も売られていく。
TOPIXが下がる、そして日経225先物も下がる…はずなのに、下げかけるとSGXでベアリングスから大口の買いが入り続ける。そして裁定買いが誘発される(割高な先物売り現物買い)。
自分の上司はNTショートで勝負していた。
明らかに日経225が異常に高いと思われたからだ。
でもなぜかそれが続く。
イライラしていた。
なんでこんな買い方が出来るんだ?
絶対におかしい。
何かあるはずだ。
ジリジリと膨らむ評価損を前に疑念と苛立ちを感じながらみんな戦っていた。
ニック・リーソン本人以外には誰も分からなかったのだから。
それがいよいよメディアなどでも話題になりはじめた頃。
阪神淡路大震災が発生した。
目が覚めてテレビに映る景色は恐ろしいものだった。
ニック・リーソンにとってはもっと違った意味で恐ろしいものだったに違いない。
それから少しして彼は逃亡した。
そしてベアリングスのポジションは明るみに出て、日経225先物は急落していく。
同社の損失額は▲約1380億円にも上った。
自己資本が約750億円しかなかったベアリングスはたった一人のトレーダーの行った取引のために破たんし、233年の歴史に幕を降ろすこととなった。
まだ若手だった自分は「すごいことが起きてしまっているんだ」と嵐の中で右往左往しながら懸命にトレードしていたけれど、相場の怖さを強く感じた事件でもあった。
その後、映画化されたときに新宿の映画館で他社のディーラーと二人で観にいって、なぜかニックがやられて呆然とするシーンで二人で変な汗かいたのを覚えている。
30周年。
短いようでもその中にはいろんな歴史やドラマがある。
そんなことを懐かしみながら、今日はそのイベントに出席させていただきます。
自分がその取引を始めたのは1990年代前半のことだ。
20数年前、まだSGXではなくSIMEX(サイメックス)と呼ばれていた頃の話。
その頃はまだフロア(立会場)があり、ラインハンドラー(場電)と呼ばれる人間がヘッドセットをしながら顧客と電話をつなぎ、場況を伝え、売買を取り次いでいた。彼らのようなラインハンドラーがぐるりとフロアを囲み、その真ん中にはオーダーフィラー(場立ち)がいた。ラインハンドラーが顧客から注文を受けると手サインでオーダーフィラーに伝え、オーダーフィラーが他のオーダーフィラーが持っている注文を見て捌いていく。
この時代はラインハンドラーとオーダーフィラーのスキルがとても重要だった。彼らが上手いか下手かで捌けるオーダーも捌けなくなる。日系の証券各社の先物ディーラーの間でラインハンドラーの取り合いなんてしょっちゅう起きていた(笑)
アテにしていたラインハンドラー取られて他社のディーラーに抗議の電話している上司の姿を今でも覚えている。
自分にとってはラインハンドラーのR(イニシャル)、オーダーフィラーのKが最高のパートナーだった。彼らにつないで注文を捌けなかったら、それは自分の判断が悪かったと思える。それぐらい絶対的な信頼を置いていた。
ラインハンドラーがフロアを囲み、そして当然他社のラインハンドラーの動きも見える。どのラインハンドラーがどういった顧客を持っているかも大体バレている。結果、大口の注文出すところとかは注目されている。
自分が若手の頃は全く気にもならなかったけれど、それなりの玉を出すようになってからはかなりウザかった…。
自分はポジションとってから、反対注文(利食い)の値段は決めてあるので大体そこに注文を出しておく。その5円手前でよく止められることが多かった。
「また止められてるよ。工藤さん、いいところに指値出し過ぎね。」
そんなことをよく二人(RとK)からよく言われていたっけ。
そこで自分は10円のバッファをRに預けることにした。
その指値から10円の範囲ではRの判断で捌いてもらっていいよと。
それぐらい信頼をおける関係だった。
今では彼女はウチのシンガポールディーリング室を支えてくれるメンバーでもある。
そして5円手前でしょっちゅう止めてくれたローカル(現地のトレーダー)は今でも飲みに行くし、家族ぐるみでも会う仲だ。しのぎを削りあい、戦った相手ではあるけれど、互いにリスペクトし、仲もいい。あの頃の市場にはそんな人間のつながりが確かにあった。
ちなみにそのローカルは今でも語り草になっている。ブラックマンデーの日、日経225先物を5000円で買った人物だ。翌日が19000円だったのだから信じ難い話だろうが、当時はサーキットブレーカーも値幅制限も整備されておらず、市場がパニックに陥る中で出されたマーケットオーダー(成行注文)はそこでそのローカルに拾われた。そして一夜にして大金を得たのだ。
SGX日経225先物で最も大きな出来事といえば『ベアリングス・ショック』だろう。
たった一人のトレーダーの手によって200年以上の歴史を誇る英国の名門銀行が破たんに追い込まれた。
その舞台となったのがこの先物だ。
当時まだ自分は若手だった。
オプション・ディーラーとしてトレードをし、先物は多少のアウトライトとオプションのポジションに対するデルタ・ヘッジなどを主目的に使うことが多かった。
確かに異常だった。
現物株がズルズルと下げていく。
当然、原資産が下がるのだからその指数先物も売られていく。
TOPIXが下がる、そして日経225先物も下がる…はずなのに、下げかけるとSGXでベアリングスから大口の買いが入り続ける。そして裁定買いが誘発される(割高な先物売り現物買い)。
自分の上司はNTショートで勝負していた。
明らかに日経225が異常に高いと思われたからだ。
でもなぜかそれが続く。
イライラしていた。
なんでこんな買い方が出来るんだ?
絶対におかしい。
何かあるはずだ。
ジリジリと膨らむ評価損を前に疑念と苛立ちを感じながらみんな戦っていた。
ニック・リーソン本人以外には誰も分からなかったのだから。
それがいよいよメディアなどでも話題になりはじめた頃。
阪神淡路大震災が発生した。
目が覚めてテレビに映る景色は恐ろしいものだった。
ニック・リーソンにとってはもっと違った意味で恐ろしいものだったに違いない。
それから少しして彼は逃亡した。
そしてベアリングスのポジションは明るみに出て、日経225先物は急落していく。
同社の損失額は▲約1380億円にも上った。
自己資本が約750億円しかなかったベアリングスはたった一人のトレーダーの行った取引のために破たんし、233年の歴史に幕を降ろすこととなった。
まだ若手だった自分は「すごいことが起きてしまっているんだ」と嵐の中で右往左往しながら懸命にトレードしていたけれど、相場の怖さを強く感じた事件でもあった。
その後、映画化されたときに新宿の映画館で他社のディーラーと二人で観にいって、なぜかニックがやられて呆然とするシーンで二人で変な汗かいたのを覚えている。
30周年。
短いようでもその中にはいろんな歴史やドラマがある。
そんなことを懐かしみながら、今日はそのイベントに出席させていただきます。