【回想録】新しい道へ…4
将来の目標と思っていたファンド組成を一気に前倒しで進める。
そして共に立ち上がってくれると言ってくれた『H』。
彼は現物株のディーラーとしては名の通った男でもあり、実績も素晴らしい。
一方で、共にシンガポールに行った『I』の強い反対。
この狭間で悩みながら、勉強会を実施した。
ディーラーの友人たち20名程度を招いて、バイサイドの環境を説明し、それについて彼らの意見を聞いた。
多くのディーラーが売買環境(システム)への不安を口にしていた。
課題は絞られた。
①売買環境をいかに証券自己に近づけるか。
②短期運用に耐えうる手数料水準を実現すること。
③運用者としてもう一名か二名が参加してくれること。
この三つの条件をクリア出来るのなら、ファンド組成を実現しようということで投資家と話がついた。
そしてずっと反対していた『I』とはここで道が分かれることとなる。
彼はシンガポールに残り、一人の運用者としてトライする道を選んだ。
今思えば、彼の意見に従うべきだったのかもしれない。
夢を実現したいという思いが強過ぎたことと、周囲の支援が予想以上に多く集まったことで、自分は焦ってしまったのかもしれない。
それでも事は動き始めた。
年明け早々に日本への二週間の出張。
先の課題をクリアすべく、一日中精力的にミーティングをこなした。
運用者は各社でもピカイチのディーラーとコンタクトを取った。
システムは投資家自身がビジネスとして興味を持ち始めていたこともあり、地場証券のディーリングシステムではトップシェアのIT社と事業提携を進めていった。
ブローカーとの手数料に関わる条件はかなり厳しかった。彼らの常識外の水準をお願いしなければならない。立ち上げ間もないヘッジファンドに対して提示してもらえるような水準ではない。それでもその水準を実現する必要があった。
かなりギリギリの交渉が続いた。
しかし、支援してくれる人たちのおかげでそういった問題を一つずつクリア。
そしてディーラーも古くからの友人でもある先物プレーヤーが参加を表明してくれた。
『これでイケる。』
そしていよいよ本格的にストラクチャリング(株式会社を作ったり、ファンドを作ったり)に着手しようとした時…。
当初から共にやろうと言ってくれた『H』が所属している証券会社に退職願を提出した翌日。
その投資家からいきなり別の条件を突き付けられた。
自分がブローカーの協力で実現した手数料を、その投資家が行っているビジネス全体に反映させろ…との無茶な条件。
そしてそれを実現できないならやらない、と突然言い出した。
さすがに頭にきた。
仲間が退職を決めた翌日というタイミングでの無茶な要求。
自分が引けなくなったところで意識的に…としか思えなかった。
しかし、キレたところで投資家がやめるといえば全ての努力は水泡に帰す。
退職願を出した仲間は
『いざとなったら就職活動するからいいですよ。』
と言ってはくれたものの、そんなワケにはいかない。
悩んだ挙句、結局ブローカーに相談し、ギリギリのところまで彼らも社内調整を行ってくれ、その無茶な要求をほぼ通すことが出来た。
そんな困難をいくつも経ながら何とか形が見えてきた。
しかし、参加を表明してくれた友人二人は『日本でなら』という条件がついていた。
自分の住まいはシンガポール。
日本に戻ること自体は構わなかったが、日本でベンチャー的なヘッジファンドを組成することはかなり難しい。
それを実現することは出来るだろうか…?
そして共に立ち上がってくれると言ってくれた『H』。
彼は現物株のディーラーとしては名の通った男でもあり、実績も素晴らしい。
一方で、共にシンガポールに行った『I』の強い反対。
この狭間で悩みながら、勉強会を実施した。
ディーラーの友人たち20名程度を招いて、バイサイドの環境を説明し、それについて彼らの意見を聞いた。
多くのディーラーが売買環境(システム)への不安を口にしていた。
課題は絞られた。
①売買環境をいかに証券自己に近づけるか。
②短期運用に耐えうる手数料水準を実現すること。
③運用者としてもう一名か二名が参加してくれること。
この三つの条件をクリア出来るのなら、ファンド組成を実現しようということで投資家と話がついた。
そしてずっと反対していた『I』とはここで道が分かれることとなる。
彼はシンガポールに残り、一人の運用者としてトライする道を選んだ。
今思えば、彼の意見に従うべきだったのかもしれない。
夢を実現したいという思いが強過ぎたことと、周囲の支援が予想以上に多く集まったことで、自分は焦ってしまったのかもしれない。
それでも事は動き始めた。
年明け早々に日本への二週間の出張。
先の課題をクリアすべく、一日中精力的にミーティングをこなした。
運用者は各社でもピカイチのディーラーとコンタクトを取った。
システムは投資家自身がビジネスとして興味を持ち始めていたこともあり、地場証券のディーリングシステムではトップシェアのIT社と事業提携を進めていった。
ブローカーとの手数料に関わる条件はかなり厳しかった。彼らの常識外の水準をお願いしなければならない。立ち上げ間もないヘッジファンドに対して提示してもらえるような水準ではない。それでもその水準を実現する必要があった。
かなりギリギリの交渉が続いた。
しかし、支援してくれる人たちのおかげでそういった問題を一つずつクリア。
そしてディーラーも古くからの友人でもある先物プレーヤーが参加を表明してくれた。
『これでイケる。』
そしていよいよ本格的にストラクチャリング(株式会社を作ったり、ファンドを作ったり)に着手しようとした時…。
当初から共にやろうと言ってくれた『H』が所属している証券会社に退職願を提出した翌日。
その投資家からいきなり別の条件を突き付けられた。
自分がブローカーの協力で実現した手数料を、その投資家が行っているビジネス全体に反映させろ…との無茶な条件。
そしてそれを実現できないならやらない、と突然言い出した。
さすがに頭にきた。
仲間が退職を決めた翌日というタイミングでの無茶な要求。
自分が引けなくなったところで意識的に…としか思えなかった。
しかし、キレたところで投資家がやめるといえば全ての努力は水泡に帰す。
退職願を出した仲間は
『いざとなったら就職活動するからいいですよ。』
と言ってはくれたものの、そんなワケにはいかない。
悩んだ挙句、結局ブローカーに相談し、ギリギリのところまで彼らも社内調整を行ってくれ、その無茶な要求をほぼ通すことが出来た。
そんな困難をいくつも経ながら何とか形が見えてきた。
しかし、参加を表明してくれた友人二人は『日本でなら』という条件がついていた。
自分の住まいはシンガポール。
日本に戻ること自体は構わなかったが、日本でベンチャー的なヘッジファンドを組成することはかなり難しい。
それを実現することは出来るだろうか…?