【回想録】混迷のとき
若手の育成は少しずつだが前に進み始めていた。
新卒のメンバー、そして中途でインド人のGやとても優秀で期待が持てるMなども入社し、彼らの成長が楽しみだった。
一方で、ディーリング部全体は徐々に追い込まれつつあった。
稼げているメンバーもある程度いたものの、逆にかなりの損失を出すディーラーも出てきて、部としては目標未達が続き、月次で赤字に陥ることもあった。
部の運営コストがおおよそ月に7000万~8000万。誰かがある程度稼いでも、誰かが穴をあければ利益は残らない。調子のいいときの自分なら一人でもカバーできる金額だったが、一時期に比べれば収益落ち込み、徐々に不安定さも出てきていた。
今のままではいけない。そんな危機感が強くなっていた。
この部を守るために…今ここで頑張っている若手のみんなが将来を夢見れる場所を守るために誰かがやらなければ。
そして自分は契約ディーラーでありながら、チーフディーラーという肩書きをもらってマネジメント補佐もするようになる。
しかし、そこにはあまりにも多くの壁があった。
ディーリング部というのは社内でもかなり特殊な部署。
良くも悪くも浮いている。
当然といえば当然だ。
寄り付き直前に来て、引けたらすぐに帰り、服装は自由。
成功報酬は異常に高くて年収億超えプレーヤーも何人かいた。
そして派手な生活(自分も途中からあんまり人のこといえなくなったけど…)。
一方で、事務方や管理部門の人たちは朝から遅くまで働いて、上司の評価やボーナスの増減に一喜一憂。建前上、我々フロントが稼げば会社が儲かり、彼らもハッピーになるはずなのだが、現実はかけ離れていた。
そしてその時期、数千万~億の損失を出して会社を辞めるディーラーも出てきていた。
彼らからみれば、損を出して会社に迷惑をかけておいて、当の本人は他社に移籍してゼロから始める。
それを強く批判する声も少なくなかった。
端的にいえば、ディーリング部は嫌われていた。
ある日、外資系証券のヤツと飲んでいたら、たまたま別席に自分の会社の事務方の人たちが飲みに来ていた。
自分は本社から離れた場所でしか働いていなかったから面識はなかったが、一緒に飲んでいた彼は若手の頃にその会社にいたことがあり、知り合いとのこと。
『紹介させてもらっていいですか?』
『あ、うん。俺も日頃お世話になってるから挨拶したいし。』
とその人たちの席にいき、紹介してもらって挨拶をした。
彼らの反応は冷たかった。
『君もスーパーディーラーとやらの一人なの?ふーん。』
『じゃ、金いっぱい持ってんだ。』
『いいよね、好き勝手やれてさ。』
いきなり初対面で…と思いもしたが、紹介してくれた彼の手前、さりげなく頭下げて『よろしくお願いします。』とだけ伝えてその席を離れた。
すぐにその外資系のヤツが自分に謝る。
どうやら彼らは自分より年下でもあったし、そいつからすると信じられない暴言に取れたらしい。
『いいよ。大丈夫。そういう目で見られている現実を知ることも必要だし。ま、変に若作りな俺も悪いし…(^_^;)』
とその場はやり過ごしたが、すごく残念な現実を思い知った出来事だった。
管理部門に嫌われている部署。
普段はディーラーだけで過ごしているから感じないで済んでいたが、これはマズイな…と強く思った。
ディーリング部で何かを変えていくためには彼らのような管理部門の協力は欠かせない。
例えば、その会社に移籍したとき『リスク管理部門』を作ってほしいと要請したことがある。
『彼』と二人で先物バタバタやっていると、一日に1万枚~2万枚やることもあり、先物手口常連の会社になっていた。
その会社のリスク管理は経理部で行われていたが、それはディーラーの目から見ても不十分なものに思えた。手数料の計算ですらいい加減だったから(ボリューム・ディスカウントの計算が出来ていなかった)。
これだけ目立っているのだから、管理体制はしっかりしてもらわないといけない。そう思って『彼』と二人で要請したのだが、それが実現するまで3年近くを要している。決してわがままなお願いではなかったはずなんだけど。
その時期、相場は大きく変化しつつあった。
株ブームの終焉とともに、日本株離れが起きつつあり、株なら新興国市場、そして為替への資金は流れていきつつあった。
小泉政権が終わり、その後の政治混迷もあって、日本はどんどん地盤沈下していく。
日経平均株価が上がろうが下がろうが、日本時間で動くことが少なくなっていた。
指数が何日かかけて1500円下がっても、東京時間の下落幅は合計でも200円~300円。上がったときも同じようなもの。
新卒のメンバー、そして中途でインド人のGやとても優秀で期待が持てるMなども入社し、彼らの成長が楽しみだった。
一方で、ディーリング部全体は徐々に追い込まれつつあった。
稼げているメンバーもある程度いたものの、逆にかなりの損失を出すディーラーも出てきて、部としては目標未達が続き、月次で赤字に陥ることもあった。
部の運営コストがおおよそ月に7000万~8000万。誰かがある程度稼いでも、誰かが穴をあければ利益は残らない。調子のいいときの自分なら一人でもカバーできる金額だったが、一時期に比べれば収益落ち込み、徐々に不安定さも出てきていた。
今のままではいけない。そんな危機感が強くなっていた。
この部を守るために…今ここで頑張っている若手のみんなが将来を夢見れる場所を守るために誰かがやらなければ。
そして自分は契約ディーラーでありながら、チーフディーラーという肩書きをもらってマネジメント補佐もするようになる。
しかし、そこにはあまりにも多くの壁があった。
ディーリング部というのは社内でもかなり特殊な部署。
良くも悪くも浮いている。
当然といえば当然だ。
寄り付き直前に来て、引けたらすぐに帰り、服装は自由。
成功報酬は異常に高くて年収億超えプレーヤーも何人かいた。
そして派手な生活(自分も途中からあんまり人のこといえなくなったけど…)。
一方で、事務方や管理部門の人たちは朝から遅くまで働いて、上司の評価やボーナスの増減に一喜一憂。建前上、我々フロントが稼げば会社が儲かり、彼らもハッピーになるはずなのだが、現実はかけ離れていた。
そしてその時期、数千万~億の損失を出して会社を辞めるディーラーも出てきていた。
彼らからみれば、損を出して会社に迷惑をかけておいて、当の本人は他社に移籍してゼロから始める。
それを強く批判する声も少なくなかった。
端的にいえば、ディーリング部は嫌われていた。
ある日、外資系証券のヤツと飲んでいたら、たまたま別席に自分の会社の事務方の人たちが飲みに来ていた。
自分は本社から離れた場所でしか働いていなかったから面識はなかったが、一緒に飲んでいた彼は若手の頃にその会社にいたことがあり、知り合いとのこと。
『紹介させてもらっていいですか?』
『あ、うん。俺も日頃お世話になってるから挨拶したいし。』
とその人たちの席にいき、紹介してもらって挨拶をした。
彼らの反応は冷たかった。
『君もスーパーディーラーとやらの一人なの?ふーん。』
『じゃ、金いっぱい持ってんだ。』
『いいよね、好き勝手やれてさ。』
いきなり初対面で…と思いもしたが、紹介してくれた彼の手前、さりげなく頭下げて『よろしくお願いします。』とだけ伝えてその席を離れた。
すぐにその外資系のヤツが自分に謝る。
どうやら彼らは自分より年下でもあったし、そいつからすると信じられない暴言に取れたらしい。
『いいよ。大丈夫。そういう目で見られている現実を知ることも必要だし。ま、変に若作りな俺も悪いし…(^_^;)』
とその場はやり過ごしたが、すごく残念な現実を思い知った出来事だった。
管理部門に嫌われている部署。
普段はディーラーだけで過ごしているから感じないで済んでいたが、これはマズイな…と強く思った。
ディーリング部で何かを変えていくためには彼らのような管理部門の協力は欠かせない。
例えば、その会社に移籍したとき『リスク管理部門』を作ってほしいと要請したことがある。
『彼』と二人で先物バタバタやっていると、一日に1万枚~2万枚やることもあり、先物手口常連の会社になっていた。
その会社のリスク管理は経理部で行われていたが、それはディーラーの目から見ても不十分なものに思えた。手数料の計算ですらいい加減だったから(ボリューム・ディスカウントの計算が出来ていなかった)。
これだけ目立っているのだから、管理体制はしっかりしてもらわないといけない。そう思って『彼』と二人で要請したのだが、それが実現するまで3年近くを要している。決してわがままなお願いではなかったはずなんだけど。
その時期、相場は大きく変化しつつあった。
株ブームの終焉とともに、日本株離れが起きつつあり、株なら新興国市場、そして為替への資金は流れていきつつあった。
小泉政権が終わり、その後の政治混迷もあって、日本はどんどん地盤沈下していく。
日経平均株価が上がろうが下がろうが、日本時間で動くことが少なくなっていた。
指数が何日かかけて1500円下がっても、東京時間の下落幅は合計でも200円~300円。上がったときも同じようなもの。
とにかく東京時間で値幅が出ない。
トレンドは完全に夜に作られていた。
こんな状態で日計りやらせていたら稼げなくなる。
収益機会の多い商品や市場へのシフト、動く時間帯へのシフトをしなければならない。
そのためにも管理部門の協力が必要だった。
ただ契約ディーラーである自分の立場には限界があった。
部長に案を提出し、あとは待つしかできなかった。
そんな焦りや苛立ちの中で、ある月に自分自身の足元をすくわれてしまうことになる。