【回想録】育成のとき…6
株ブームの終焉…しかし、そこで個人投資家は終わらなかった。
それまで個人投資家と言えば『逆張り指標』的な見方をする市場関係者が多かったが、株ブームを経てからの個人は様変わりしていた。
よりしたたかになり、ヘタなプロよりも真剣にマーケットと対峙していた。
彼らは日本株がダメなら…と、中国株やベトナム株、FX…どんどんと収益機会を求めて能動的に動いていた。
そんな中で日系中小証券のディーラー達は、ただこれまでと同じことを続けていた。
海外市場をやろうと思ってもリスク管理やコンプライアンス管理という壁にぶつかり先に進めない。
夜間取引一つとっても、松井証券などがCMEを取扱い、個人投資家ですら夜間売買をするようになっているのに、我々は規制だらけで前に進めなかった。
最初は会社からじゃないと発注してはいけない。
次に管理者(部長)が立ち会っていないと発注してはいけない。
現実的に夜間取引をしたいから部長に朝まで付き合ってくれなんて言えるわけがない。
そして外資系証券のプロップ(自己取引)では、事前登録をしてあるトレーダーは夜間売買を自由に行っていた。
同じ日本に存在する証券会社においても明らかな二重基準。
海外先物、せめてアジアのものだけでも(時間帯が東京の日中に行える)やれるようにしようと働きかけたが、半年経っても前に進まなかった。
『このままではいずれディーリングは生き残れなくなる…。』
この頃からそういった危機感は強くなった。
稼げるポテンシャルを持った人材でも、運用の自由度がない中で、東京市場に依存した状態では生き残るのは難しい。
会社によってはオーバーナイトすら禁じていたし、コンプライアンスに関する基準は恐ろしいほど高くなっていた。
取り消しなんかも安易にできない。
しかし、システム(アルゴ)がそれを行うのは不問とされる。
圧倒的に不利な状況が生まれつつあった。
手かせ足かせをハメられて戦えと言われているに等しい。
かつて、ネット証券の台頭、そしてデイ・トレーダーと言われる個人投資家が急増するまでの間、ディーラーは圧倒的に優位な環境にあった。
顧客が電話で板状況を聞いて、それから電話で注文して、それを取り次ぐ…。
その間にディーラーは自分の目の前にある板を観ながら発注することが出来た。
環境の優位性。
それに加えて市場情報においても優位な環境が常にあった。
ある意味では勝てて当たり前だったかもしれない。
しかし、インターネットの普及やシステムの発達により、その優位性はほとんどなくなっている。
このままではいけない…そんな危機感を持ちながら、今余力のあるうちに動かなければという焦りが強かった。
しかし、会社に色々と提案してもなかなか前には進まなかった。
人材育成の方は、順調とは言えなかったが少しずつ前に進んでいった。
新規採用した二人。
Oはかなりの困ったちゃん(^_^;)
ある証券を3か月でクビになり、ウチを受けに来ていた。
「標準偏差で順張りしてる」
と面接で堂々とワケのワカラン能書きをたれてくれていた(笑)
最初は無理だろ…と思っていたが、熱意はあった。
そして海外留学経験があり、語学力堪能であったため、人事部長と話し合い、彼がディーラーとしてダメだった場合でも会社としては欲しい人材かどうかを確認した。
そのうえで本人が諦めつくまでやらしてやりたいとお願いして採用。
ただ予想通り…彼は色々な伝説作ってくれました(-_-;)
月間損失限度は100万円。
ポジション枠は1000万円。
オーバーナイトは禁止(のはずだった)。
このルールで、Oが売買を始めて2日目のこと。
新日鉄が急騰した日。
ザラ場の動きは押し目なしのほぼ右肩上がり。
値動きとしてはいい銘柄だったし、コイツに手を出していることはよかった。
ただ内容が…(^_^;)
そんだけ強い銘柄を買っては投げ、売っては踏み…。
挙句の果てに買い持ちでオーバーナイトのルール違反までしていた。
しかもオーバーナイトロングの数分前に売りから入って踏まされてる。
強気なんだか弱気なんだか…(^_^;)
完全に値動きに振り回されてる売買内容だった。
『コイツは危ない』
そこからしばらくOについては無茶なロスを出させないことが自分の課題になった。
どこかで『相場を仕掛ける』とか、そういったことをカッコイイと思ってるところがあったO。
相場は仕掛けるものではなく、自分の力で動かすべきものでもない。
我々の仕事は相場の流れを読み、それに乗るのが仕事。
その意識改革を時間をかけてやらなければならなかった。
最終的にOは自分が異動を申し伝えなければならなくなった。
最後に銀座のすし屋に連れていってやり、そこでサシで色々と話ながら異動を伝えた(運用に携われる部署だった)。
そこで最後に
『何か俺にしてほしいことあるか?』
『キャバクラ連れていってください。』
それがOというヤツだった(^_^;)
コイツはそれ以外にも数々の伝説を残した。
自分にとってはとても印象の強い部下だった。
もう一人の困ったチャンのH。
こいつは面接でいきなりパチスロ必勝法を自分と人事部長、ディーリング部長に語り始めたヤツ。
社会人としては指導するのが大変なヤツだとは思ったが、研究熱心なのと勝負ごとに対する感覚みたいなものを感じたので採用した。
コイツはとにかく人の言う事を聞かない。
言われたことをやるというタイプではなかった。
会社から預けられている立場としては、しょっちゅう叱らなければならなかったが、ディーラーとしてはその成長を一番安心して見ていられた。
稼ぎたいという欲が強く、稼いでいる人のところに片っ端からくっついて回り、色んなことを聞き出そうとする。
そして自分が知りたいと思ったことについては貪欲に学んでいた。
自分のところには都合いいときだけ(VBAとか…)、よく聞きにきていたっけ。
収益もスルスルと順調に伸びていったし、途中で壁にぶつかったときに無理をしない慎重さも持ち合わせていた(多少、慎重すぎるときもあったが)。
そして部下たちの中で最初に自分が課したハードルをクリアしたヤツでもある。
彼ら一人一人には最終的に月1000万円以上稼げるようになれと言っていた。
そこでようやく一人前だと。
この世界で生き残っていくためには必要な数字だと思った。
月200万~300万円程度のディーラーはゴロゴロいる。
業界で2000人~3000人はいると言われる証券ディーラー。
しかし、この椅子はいずれ減ることが見えていた。
地場証券経営者の多くが、東証上場を機に廃業すると言われていた。
そのときにその他大勢と同じレベルでは生き残れない。
月1000万円、年間で1億円以上。
このラインは職業ディーラーとして、彼らがいずれ来る荒波を乗り越えるのに必要と思う数字だったから。
後々、すでに自分は違う会社に移籍していたが、Hはそのハードルをクリアしたときに連絡をくれ、ご馳走させてくれと言ってきた。
すごく嬉しい報告だったことを覚えている。
そしてメシを奢ってもらった(先輩としては一応3倍返しぐらいでキャバ奢り返したけど(^_^;))。
いいメシだったな。
かつて自分が誓ったことを一つクリアできた。
そう教えてくれた後輩だった(ホント、人の言うこと聞かないヤツだけど…)。
一方で、弟子一号でもあったBくんは苦戦していた。
ヤラレはしない。
しかし、数字も伸びない。
いつまでも自分のコストを稼げるレベルまでいく気がしない状況だった。
後から入ってきたHにも抜かれ、本人も焦ってはいただろう。
そして自分もかなり厳しく追い込みもした。
真面目で責任感も強いが、勝負度胸に欠け、どこか弱腰な印象が強いBくん。
勝負して、失敗して、それを乗り越えて…そういった形で自信をつけていかなければ彼は大きくなれない。
そのためには勝負しなければいけないが、Hに抜かれていってもライバル心むき出しで頑張る…というところもなく、(元々小さい)ポジション枠をフルに使うこともほとんどなかった。
『攻める』姿勢に欠けていた。
『守る』は上手にできていたけど。
勝負の世界では攻めるべきときと守るべきときがある。
守りだけでは生き残れない。
攻めるだけでも生き残れない。
どうすればBくんが攻めることが出来るようになるか…。
自分にとっても難しい問題だった。
根本的な性格は変わらないから…(^_^;)
そこで自分は一つの提案をした。
『ロング・ショートをやってみないか?』
自分が若手の頃にやっていた手法の一つ。
その頃に作ったプログラムやシートも残っている。
地場証券で収集できるデータやExcelレベルでは出来る範囲は限られるが、ロング・ショートで求められるのは、日々のデータ分析とそれを着実に実行する根気。
Bくんには合っているんじゃないか、と思った。
そこで自分の隣に座らせて、かつて自分がやっていたロング・ショートの基本的なアプローチとVBAを教え込んでいった。
Bくんはそれをうまくこなしてくれた。
それまで全く可能性を示せなかったが、ロング・ショートを始めてから彼の数字はどんどん伸びていった。
その後も新卒や中途採用合わせて10名前後の未経験者の育成にかかわった。
月間で稼ぎ頭になったヤツもいる。
ディーラーとして挫折したヤツもいる。
ただその一人一人が自分にとってはとても大切な部下たちだ。
全員を成功させたかった。
それが無理だと分かっていても。
時としてムチャクチャ厳しい先輩だったかもしれない。
自分に泣かされたヤツも何人か(も?)いる。
ただディーラーとして相場と対峙し続けてきた自分にとって、彼らの存在は自分の仕事に違った意味を与えてくれた。
『人を育てる』
自分が育てた…というより、彼ら自身で育ち、自分は手を貸したに過ぎない。
彼ら一人一人がそれぞれの場所で頑張ってくれていることが、自分にとっての励みになる。
そしてチーフとの決別のとき、自身に課した二つの目標。
ただ全力でその目標に向かって走り続けてきた。
それをクリアしつつある中で、次の目標を見出すことが出来ずに迷いが生まれ始めていた時期でもあった。
それまで個人投資家と言えば『逆張り指標』的な見方をする市場関係者が多かったが、株ブームを経てからの個人は様変わりしていた。
よりしたたかになり、ヘタなプロよりも真剣にマーケットと対峙していた。
彼らは日本株がダメなら…と、中国株やベトナム株、FX…どんどんと収益機会を求めて能動的に動いていた。
そんな中で日系中小証券のディーラー達は、ただこれまでと同じことを続けていた。
海外市場をやろうと思ってもリスク管理やコンプライアンス管理という壁にぶつかり先に進めない。
夜間取引一つとっても、松井証券などがCMEを取扱い、個人投資家ですら夜間売買をするようになっているのに、我々は規制だらけで前に進めなかった。
最初は会社からじゃないと発注してはいけない。
次に管理者(部長)が立ち会っていないと発注してはいけない。
現実的に夜間取引をしたいから部長に朝まで付き合ってくれなんて言えるわけがない。
そして外資系証券のプロップ(自己取引)では、事前登録をしてあるトレーダーは夜間売買を自由に行っていた。
同じ日本に存在する証券会社においても明らかな二重基準。
海外先物、せめてアジアのものだけでも(時間帯が東京の日中に行える)やれるようにしようと働きかけたが、半年経っても前に進まなかった。
『このままではいずれディーリングは生き残れなくなる…。』
この頃からそういった危機感は強くなった。
稼げるポテンシャルを持った人材でも、運用の自由度がない中で、東京市場に依存した状態では生き残るのは難しい。
会社によってはオーバーナイトすら禁じていたし、コンプライアンスに関する基準は恐ろしいほど高くなっていた。
取り消しなんかも安易にできない。
しかし、システム(アルゴ)がそれを行うのは不問とされる。
圧倒的に不利な状況が生まれつつあった。
手かせ足かせをハメられて戦えと言われているに等しい。
かつて、ネット証券の台頭、そしてデイ・トレーダーと言われる個人投資家が急増するまでの間、ディーラーは圧倒的に優位な環境にあった。
顧客が電話で板状況を聞いて、それから電話で注文して、それを取り次ぐ…。
その間にディーラーは自分の目の前にある板を観ながら発注することが出来た。
環境の優位性。
それに加えて市場情報においても優位な環境が常にあった。
ある意味では勝てて当たり前だったかもしれない。
しかし、インターネットの普及やシステムの発達により、その優位性はほとんどなくなっている。
このままではいけない…そんな危機感を持ちながら、今余力のあるうちに動かなければという焦りが強かった。
しかし、会社に色々と提案してもなかなか前には進まなかった。
人材育成の方は、順調とは言えなかったが少しずつ前に進んでいった。
新規採用した二人。
Oはかなりの困ったちゃん(^_^;)
ある証券を3か月でクビになり、ウチを受けに来ていた。
「標準偏差で順張りしてる」
と面接で堂々とワケのワカラン能書きをたれてくれていた(笑)
最初は無理だろ…と思っていたが、熱意はあった。
そして海外留学経験があり、語学力堪能であったため、人事部長と話し合い、彼がディーラーとしてダメだった場合でも会社としては欲しい人材かどうかを確認した。
そのうえで本人が諦めつくまでやらしてやりたいとお願いして採用。
ただ予想通り…彼は色々な伝説作ってくれました(-_-;)
月間損失限度は100万円。
ポジション枠は1000万円。
オーバーナイトは禁止(のはずだった)。
このルールで、Oが売買を始めて2日目のこと。
新日鉄が急騰した日。
ザラ場の動きは押し目なしのほぼ右肩上がり。
値動きとしてはいい銘柄だったし、コイツに手を出していることはよかった。
ただ内容が…(^_^;)
そんだけ強い銘柄を買っては投げ、売っては踏み…。
挙句の果てに買い持ちでオーバーナイトのルール違反までしていた。
しかもオーバーナイトロングの数分前に売りから入って踏まされてる。
強気なんだか弱気なんだか…(^_^;)
完全に値動きに振り回されてる売買内容だった。
『コイツは危ない』
そこからしばらくOについては無茶なロスを出させないことが自分の課題になった。
どこかで『相場を仕掛ける』とか、そういったことをカッコイイと思ってるところがあったO。
相場は仕掛けるものではなく、自分の力で動かすべきものでもない。
我々の仕事は相場の流れを読み、それに乗るのが仕事。
その意識改革を時間をかけてやらなければならなかった。
最終的にOは自分が異動を申し伝えなければならなくなった。
最後に銀座のすし屋に連れていってやり、そこでサシで色々と話ながら異動を伝えた(運用に携われる部署だった)。
そこで最後に
『何か俺にしてほしいことあるか?』
『キャバクラ連れていってください。』
それがOというヤツだった(^_^;)
コイツはそれ以外にも数々の伝説を残した。
自分にとってはとても印象の強い部下だった。
もう一人の困ったチャンのH。
こいつは面接でいきなりパチスロ必勝法を自分と人事部長、ディーリング部長に語り始めたヤツ。
社会人としては指導するのが大変なヤツだとは思ったが、研究熱心なのと勝負ごとに対する感覚みたいなものを感じたので採用した。
コイツはとにかく人の言う事を聞かない。
言われたことをやるというタイプではなかった。
会社から預けられている立場としては、しょっちゅう叱らなければならなかったが、ディーラーとしてはその成長を一番安心して見ていられた。
稼ぎたいという欲が強く、稼いでいる人のところに片っ端からくっついて回り、色んなことを聞き出そうとする。
そして自分が知りたいと思ったことについては貪欲に学んでいた。
自分のところには都合いいときだけ(VBAとか…)、よく聞きにきていたっけ。
収益もスルスルと順調に伸びていったし、途中で壁にぶつかったときに無理をしない慎重さも持ち合わせていた(多少、慎重すぎるときもあったが)。
そして部下たちの中で最初に自分が課したハードルをクリアしたヤツでもある。
彼ら一人一人には最終的に月1000万円以上稼げるようになれと言っていた。
そこでようやく一人前だと。
この世界で生き残っていくためには必要な数字だと思った。
月200万~300万円程度のディーラーはゴロゴロいる。
業界で2000人~3000人はいると言われる証券ディーラー。
しかし、この椅子はいずれ減ることが見えていた。
地場証券経営者の多くが、東証上場を機に廃業すると言われていた。
そのときにその他大勢と同じレベルでは生き残れない。
月1000万円、年間で1億円以上。
このラインは職業ディーラーとして、彼らがいずれ来る荒波を乗り越えるのに必要と思う数字だったから。
後々、すでに自分は違う会社に移籍していたが、Hはそのハードルをクリアしたときに連絡をくれ、ご馳走させてくれと言ってきた。
すごく嬉しい報告だったことを覚えている。
そしてメシを奢ってもらった(先輩としては一応3倍返しぐらいでキャバ奢り返したけど(^_^;))。
いいメシだったな。
かつて自分が誓ったことを一つクリアできた。
そう教えてくれた後輩だった(ホント、人の言うこと聞かないヤツだけど…)。
一方で、弟子一号でもあったBくんは苦戦していた。
ヤラレはしない。
しかし、数字も伸びない。
いつまでも自分のコストを稼げるレベルまでいく気がしない状況だった。
後から入ってきたHにも抜かれ、本人も焦ってはいただろう。
そして自分もかなり厳しく追い込みもした。
真面目で責任感も強いが、勝負度胸に欠け、どこか弱腰な印象が強いBくん。
勝負して、失敗して、それを乗り越えて…そういった形で自信をつけていかなければ彼は大きくなれない。
そのためには勝負しなければいけないが、Hに抜かれていってもライバル心むき出しで頑張る…というところもなく、(元々小さい)ポジション枠をフルに使うこともほとんどなかった。
『攻める』姿勢に欠けていた。
『守る』は上手にできていたけど。
勝負の世界では攻めるべきときと守るべきときがある。
守りだけでは生き残れない。
攻めるだけでも生き残れない。
どうすればBくんが攻めることが出来るようになるか…。
自分にとっても難しい問題だった。
根本的な性格は変わらないから…(^_^;)
そこで自分は一つの提案をした。
『ロング・ショートをやってみないか?』
自分が若手の頃にやっていた手法の一つ。
その頃に作ったプログラムやシートも残っている。
地場証券で収集できるデータやExcelレベルでは出来る範囲は限られるが、ロング・ショートで求められるのは、日々のデータ分析とそれを着実に実行する根気。
Bくんには合っているんじゃないか、と思った。
そこで自分の隣に座らせて、かつて自分がやっていたロング・ショートの基本的なアプローチとVBAを教え込んでいった。
Bくんはそれをうまくこなしてくれた。
それまで全く可能性を示せなかったが、ロング・ショートを始めてから彼の数字はどんどん伸びていった。
その後も新卒や中途採用合わせて10名前後の未経験者の育成にかかわった。
月間で稼ぎ頭になったヤツもいる。
ディーラーとして挫折したヤツもいる。
ただその一人一人が自分にとってはとても大切な部下たちだ。
全員を成功させたかった。
それが無理だと分かっていても。
時としてムチャクチャ厳しい先輩だったかもしれない。
自分に泣かされたヤツも何人か(も?)いる。
ただディーラーとして相場と対峙し続けてきた自分にとって、彼らの存在は自分の仕事に違った意味を与えてくれた。
『人を育てる』
自分が育てた…というより、彼ら自身で育ち、自分は手を貸したに過ぎない。
彼ら一人一人がそれぞれの場所で頑張ってくれていることが、自分にとっての励みになる。
そしてチーフとの決別のとき、自身に課した二つの目標。
ただ全力でその目標に向かって走り続けてきた。
それをクリアしつつある中で、次の目標を見出すことが出来ずに迷いが生まれ始めていた時期でもあった。