【回想録】挑戦のとき…3
自分の話を進めていく前に…
ちょっと戻ってその頃(2005年~2006年)のマーケットについて思い出してみたい。
自分の収益が爆発的に伸びた時期、これは自分自身の実力向上だけではなく、相場の追い風というのが間違いなくあった。
『株ブーム』
そう呼ばれる時代。
本屋には株関係の本が並び、デイ・トレーダーと言われる人が急増した。
手元資金のないヤツ、もっと大きな勝負がしたいヤツはディーラーを志した。
『株ドル』と言われる子たちが注目を集めた。
いわゆる株アイドル。
若林史江ちゃんとか、深田萌絵ちゃんとか…。
小泉首相の高支持率もあり、日本株が海外株に比べて(珍しく)オーバーパフォーム。
外国人買いに加え、個人投資家の熱狂が株式市場を押し上げていった。
この時期、いくつか話題になったことがある。
ちょっとその辺りを振り返ってみたい。
デリバティブ・ディーラーだった自分たちの中で話題を集めたのはタイコム証券のポジション。
同社はディープ・アウトのオプションを大量に売り続けていた。
非常に低いプレミアム(オプションでは価格のことをプレミアムと呼ぶ)のオプションを万単位で売り建てる。
SQまでに日経平均株価がそこまで上がらなければ(下がらなければ)そのプレミアムは利益となる。
『どーせ、そこまではいかないだろう』的なポジション。
オプションをある程度やったことがある人間なら、そのポジションの怖さは分かると思う。
ディープ・アウトのコールとプットを両方売るから、デルタは一見フラット。
しかし、『どーせ、いかないだろう』と思っていた日経平均株価がいってしまったとき。そのリスクは牙をむく。
『ガンマ・リスク』
オプションのポジション・コントロールにおいて、最も重要なリスク・ファクターだ。
2005年夏。
動かない相場が続いた。
そういった相場ならよかったが、2005年後半になって相場は上昇を始めた。
そして力強い上昇をみせていく。
12000円を突破、13000円、14000円と駆け上がる日経平均株価。
東証の出来高は45億株乗せとなるなど、驚くほどの活況をみせていた。
例えば
2005年9月9日(9月限SQ)に10月限の13500円コールを10000枚売り建てる。このときの日経平均株価は12692.04円。コールのプレミアム(価格)は21.30円。10月限のSQまでに日経平均株価が13500円に届かなければそのプレミアムはゼロになるから丸儲け。その金額は2億3000万円也。
ところが…日経平均株価はその後急伸し、10月初旬につけた高値は13783.60円。そのオプションのプレミアムは330円まで急騰した。その時点での損失は▲30億8700万円にもなる。
しかも、10円20円のプレミアムのオプションなら、板も詰まっているから数千枚をさばける。しかしオプションのプレミアムが上がれば上がるほど板は薄くなり、万単位のオプションを買い戻すことは困難になっていく。
普通であれば、先物を使ってデルタ・ヘッジを小まめにやっていかなければならないのだが、同社はそれを非常に大雑把にしかやっていなかった。
ほぼアット・ザ・マネー(権利行使価格と原証券=日経平均株価が同じ水準)になってから、先物に成り行き2000枚の買いとかを断続的に入れていた。
とてつもない評価損。ミエミエのポジション。デリバティブ運用者達にとっては格好の餌食となった。
その背景にあったと推測されているのが、(ブッコミ☆さんのブログに出ている)あるファンド。
(※フィスコのコラムでその頃書いたものをもとにしています)
自分がペーペーの頃、経験した『ベアリングス・ショック』。ニック・リーソンによる大量の先物買い支え→阪神淡路大震災→日経平均株価急落から、イギリスの名門ベアリングス証券が倒産に追い込まれた。
彼の先物ポジションが異常に膨れ上がっていたのは周知の事実だが、目先の資金を手当てするため、オプションを大量に売り続けていた。それを守るために先物を買い続けた彼。
90年代に日経オプションを大量に売り続けていた会社がある。銀行系証券の一社だが、そこが銀行による増資救済に追い込まれるきっかけになったのも、オプションの売りによる損失が一因だ。
オプションの売りは10回に9回は勝てる。ただたった一度の負けで全てを失いかねない。
ガンマの怖さを軽視してはいけない…その典型的な例がタイコム証券のオプション手口だった。
ちなみにこの出来事により、大証の証拠金制度が変更されるに至っている(^_^;)