【回想録】変化のとき…5
この時期、『例の飲み会』が拡大しつつあった。
元々はディーラーの交流の場をつくろうという思いから始まった。
自分自身の苦しんだ経験から、業界内での交流を持つことの重要さを思い知った。
立会場がなくなり、他社との交流を広げる機会が減った。
その機会を持てる場を作りたい…。
そんな思いからディーラーの交流会をはじめ、それに加えて情報部時代に知り合った人たちにも声をかけた。
これらの人たちは情報関係の仕事をしているだけに、他社の人との交流が広い。
最初は40人ぐらい。
そこから70人、100人、150人…と増え続けていった。
その時期は一人で場所取り、声掛け、段取り、会計の全てをやらなければいけなかった。
当然、ドタキャンが重なれば自腹を切らなければならないこともあったし、かなり大変だった。
それを支えてくれたのがアシスタントUさん。
仕事においては(システム導入に伴って)アシスタント業務が必要なくなったため離れることになったが、その後もそういった自分の活動を支えてくれていた。
参加者が200人を超えた頃。
自分一人で仕切っていくのは無理と思い、業界でも顔を広い知人・友人に声をかけて共同幹事の形式をとることになった。
それが
『MarketForum』
今では500人~600人の参加者が集まるイベントになっている。
その発端となったのがこの時期の自分の活動だった。
仕事の方はというと、かなり順調に数字を伸ばしていた。
しかし、そこに隙が生まれた。
毎月5000万以上は稼げていたのに、ある月ほとんどチャラという状態になった。
『慢心』から来た不調。
そして焦りが生まれた。
その翌月の2003年12月。
この月のトレードは出だしから不調だった。
元々、メジャーSQ週は苦手な方だったが、損失が先行して苦しいスタート。
その前の1年半ぐらい、月間マイナスは一度もなかった。
だからこそ早く取り返そうという焦りがあった。
苦手なメジャーSQ終了までに▲1800万ぐらいの損失だったと思う。
その焦りが失敗を生んだ。
きっかけは一つのニュースだった。
『サダム・フセイン捕縛』
メジャーSQ後、週明けの日本株市場はそれを好感して始まった。
前営業日、日経平均先物の終値が10160円。
その日の寄り付きは10500円だった。高値は10510円。
さすがにスタートから行き過ぎだったのだろう。
その後、いったん10380円まで売られる。
最後は切り返し10450円。
当然、今晩の米国株は大幅上昇と思っていた。
イラク戦争において当事者であった国だし、さすがに今日一日ぐらいは…。
自分はその日日計りで300万ぐらい利益を出し、評価益500万超で銀行株を何銘柄かフルロングで残した。
その頃はある程度オーバーナイトもやっていたが、ポジション枠リミットに近いリスクを取ることは滅多になかった。
もちろんその日の米国市場は堅調な動きをみせた。
朝方だけは…。
10000ドル台に乗せたばかりのNYダウは上伸。
一時、100ドル高近くまで上昇した。
しかし、その後スルスルと値を下げ、終値は10022.82ドル。
終わってみれば、前日比▲19.34ドル安。
米国株式市場の大幅上昇を織り込んで、日経平均先物は前日に290円高している。
当然のごとく、翌日は全面安。持ち越していた銀行株も全て売り気配でのスタートとなった。
みるみるうちに評価益が消え、損失になっていく。
しかし、銀行株は一向に寄る気配がない。
他の銘柄が寄り付き、先物が寄り付いてもまだ売り気配(それだけ同じようなやつがいたんだろう)。
仕方なく、先物でフルヘッジをかける。
100枚ぐらい売ったかな。
銀行株が寄り付く前に少し先物は戻り始めていた。
そして最後に銀行株が寄った瞬間、先物に一気に買いが入った。
いわゆる
マタサキ…
銀行株で損失を出し、ヘッジのつもりで売った先物を踏まさせられ…その時点での損失は▲3400万弱。
当時、自分のロスカット限度額は4000万円に設定されていた。
まだ600万ある。
しかし、月間ロスカットに近い水準の損失を出したのは初めてのことだった。
いったんポジションを整理し、頭を冷やそう…。
その日は一日トレードをしなかった。
悔しくてしょうがなかった。
取り返したくて、戦いたくてしょうがなかった。
でもそんな自分を必死で抑えながら、なぜそうなってしまったのかを考えていた。
収益が伸びていた時期の自分の慢心。
そしてトレーディングが雑になり、前月苦戦した。
今月はやってみせよう、という気負い。
そして一番苦手なメジャーSQの時期に、無理なトレーディングをし、損失が先行した。
完全に焦っていた。
取り返さなきゃという気持ちに冷静さを欠いていた。
相場は自分の都合で動いてはくれない。
いい時の自分なら、『フセイン捕縛』のニュースでそこまで無理なリスクは取らなかったはず。
評価益を含めてもまだマイナスの状況で無理をするところではなかった。
取り返すために過剰なリスクを取っていた。
完全に自分を見失っていた。
翌日、自分は部長にその月トレードを止めることを申し出た。
悔しくて仕方なかったが、取り返そうと思って無理をしてもいい結果は出ない。
中途半端にやれる状態では、きっと手を出してしまう。
それぐらいならやらないと決め、自分自身の修正に時間を使おうと決めた。
翌12月17日、一日だけ休暇をもらい気分転換。
そこからは黙々とシミュレーションの日々が続いた。
そして迎えた年末年始。
とても楽しめる気分ではなかった。
1月は金額を落とし、まず一日一日しっかりとプラスを積み上げることだけを考えた。
しかし、その月の後半は所属している会社が処分を食らい、2週間売買停止。
正月明け2週間でリカバリーが出来たのはわずか700万だった。
その損失を完全にリカバリー出来たのは3月に4300万円の利益が出てだった。
長い3か月だった。
はじめてスランプというものを味わった。
その時期に少しずつ、自分の中でこのままではいけないという思いが生まれ始めていた。
元々はディーラーの交流の場をつくろうという思いから始まった。
自分自身の苦しんだ経験から、業界内での交流を持つことの重要さを思い知った。
立会場がなくなり、他社との交流を広げる機会が減った。
その機会を持てる場を作りたい…。
そんな思いからディーラーの交流会をはじめ、それに加えて情報部時代に知り合った人たちにも声をかけた。
これらの人たちは情報関係の仕事をしているだけに、他社の人との交流が広い。
最初は40人ぐらい。
そこから70人、100人、150人…と増え続けていった。
その時期は一人で場所取り、声掛け、段取り、会計の全てをやらなければいけなかった。
当然、ドタキャンが重なれば自腹を切らなければならないこともあったし、かなり大変だった。
それを支えてくれたのがアシスタントUさん。
仕事においては(システム導入に伴って)アシスタント業務が必要なくなったため離れることになったが、その後もそういった自分の活動を支えてくれていた。
参加者が200人を超えた頃。
自分一人で仕切っていくのは無理と思い、業界でも顔を広い知人・友人に声をかけて共同幹事の形式をとることになった。
それが
『MarketForum』
今では500人~600人の参加者が集まるイベントになっている。
その発端となったのがこの時期の自分の活動だった。
仕事の方はというと、かなり順調に数字を伸ばしていた。
しかし、そこに隙が生まれた。
毎月5000万以上は稼げていたのに、ある月ほとんどチャラという状態になった。
『慢心』から来た不調。
そして焦りが生まれた。
その翌月の2003年12月。
この月のトレードは出だしから不調だった。
元々、メジャーSQ週は苦手な方だったが、損失が先行して苦しいスタート。
その前の1年半ぐらい、月間マイナスは一度もなかった。
だからこそ早く取り返そうという焦りがあった。
苦手なメジャーSQ終了までに▲1800万ぐらいの損失だったと思う。
その焦りが失敗を生んだ。
きっかけは一つのニュースだった。
『サダム・フセイン捕縛』
メジャーSQ後、週明けの日本株市場はそれを好感して始まった。
前営業日、日経平均先物の終値が10160円。
その日の寄り付きは10500円だった。高値は10510円。
さすがにスタートから行き過ぎだったのだろう。
その後、いったん10380円まで売られる。
最後は切り返し10450円。
当然、今晩の米国株は大幅上昇と思っていた。
イラク戦争において当事者であった国だし、さすがに今日一日ぐらいは…。
自分はその日日計りで300万ぐらい利益を出し、評価益500万超で銀行株を何銘柄かフルロングで残した。
その頃はある程度オーバーナイトもやっていたが、ポジション枠リミットに近いリスクを取ることは滅多になかった。
もちろんその日の米国市場は堅調な動きをみせた。
朝方だけは…。
10000ドル台に乗せたばかりのNYダウは上伸。
一時、100ドル高近くまで上昇した。
しかし、その後スルスルと値を下げ、終値は10022.82ドル。
終わってみれば、前日比▲19.34ドル安。
米国株式市場の大幅上昇を織り込んで、日経平均先物は前日に290円高している。
当然のごとく、翌日は全面安。持ち越していた銀行株も全て売り気配でのスタートとなった。
みるみるうちに評価益が消え、損失になっていく。
しかし、銀行株は一向に寄る気配がない。
他の銘柄が寄り付き、先物が寄り付いてもまだ売り気配(それだけ同じようなやつがいたんだろう)。
仕方なく、先物でフルヘッジをかける。
100枚ぐらい売ったかな。
銀行株が寄り付く前に少し先物は戻り始めていた。
そして最後に銀行株が寄った瞬間、先物に一気に買いが入った。
いわゆる
マタサキ…
銀行株で損失を出し、ヘッジのつもりで売った先物を踏まさせられ…その時点での損失は▲3400万弱。
当時、自分のロスカット限度額は4000万円に設定されていた。
まだ600万ある。
しかし、月間ロスカットに近い水準の損失を出したのは初めてのことだった。
いったんポジションを整理し、頭を冷やそう…。
その日は一日トレードをしなかった。
悔しくてしょうがなかった。
取り返したくて、戦いたくてしょうがなかった。
でもそんな自分を必死で抑えながら、なぜそうなってしまったのかを考えていた。
収益が伸びていた時期の自分の慢心。
そしてトレーディングが雑になり、前月苦戦した。
今月はやってみせよう、という気負い。
そして一番苦手なメジャーSQの時期に、無理なトレーディングをし、損失が先行した。
完全に焦っていた。
取り返さなきゃという気持ちに冷静さを欠いていた。
相場は自分の都合で動いてはくれない。
いい時の自分なら、『フセイン捕縛』のニュースでそこまで無理なリスクは取らなかったはず。
評価益を含めてもまだマイナスの状況で無理をするところではなかった。
取り返すために過剰なリスクを取っていた。
完全に自分を見失っていた。
翌日、自分は部長にその月トレードを止めることを申し出た。
悔しくて仕方なかったが、取り返そうと思って無理をしてもいい結果は出ない。
中途半端にやれる状態では、きっと手を出してしまう。
それぐらいならやらないと決め、自分自身の修正に時間を使おうと決めた。
翌12月17日、一日だけ休暇をもらい気分転換。
そこからは黙々とシミュレーションの日々が続いた。
そして迎えた年末年始。
とても楽しめる気分ではなかった。
1月は金額を落とし、まず一日一日しっかりとプラスを積み上げることだけを考えた。
しかし、その月の後半は所属している会社が処分を食らい、2週間売買停止。
正月明け2週間でリカバリーが出来たのはわずか700万だった。
その損失を完全にリカバリー出来たのは3月に4300万円の利益が出てだった。
長い3か月だった。
はじめてスランプというものを味わった。
その時期に少しずつ、自分の中でこのままではいけないという思いが生まれ始めていた。