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【ビジネス】マーケットが大好きな人達へ

運用開始から二カ月。
そこに至るまでの準備期間も含めて、自分にとっては知らないこと、分からないことも沢山ある中で、多くのことを学びながら、ただ必死に走った気がする。
こんなにハードワークしたのも、いろいろと勉強したのも、20歳代の頃以来かもしれない。

地場証券のディーリングからのヘッジファンドビジネスへの取り組み。
地場証券の自己資金運用の世界で運用の経験と実績を積み、その先に投資家の資金を受託できる、より大きな舞台へと進むことが出来る道を作る。

桁がだいぶ違う世界、スケールもこれまでとは違い過ぎる。
その中でどこまで出来るのか?
不安がない訳ではなかった。

自分がこれまで見てきた沢山の運用者の中で、最も信頼できる後輩達との挑戦だけに、失敗させる訳にはいかない。
様々な投資家に会い、プレゼンテーションをする中で、最初はダメ出しを食らうことも少なくなかったし、彼らの良さをうまく伝えられない自分が歯がゆかったりもした。

彼らの代弁者として、その哲学をどう理解し、伝えられるか。

この取り組み自体は、自分が十年以上も考え続けてきたことだし、その土台作りに何年もかけて、小さな変化からはじめて現在がある。
それについてはいくらでも自分の言葉は出てくる。

自分には営業経験もないし、相手はプロの機関投資家の方ばかり。
自分よりも遥かにこっちの知識は豊かだし、様々なヘッジファンドのファンドマネージャーを見てきてもいる。

自分たちに何が足りなくて
自分たちにあるものがなんなのか

常に自問自答しながら取り組んだ数か月だった。

信頼を与えてもらえた。
また信頼してくれる方に出会えた。

そして気がついてみれば、初期の目標としていた水準がすでに見えてきている。
でも、それがヘッジファンドとしての本当の意味でのスタートライン。


自分が創りたかったもの。
自分が創りたいと願っているもの。
自分が大切にしているもの。


自分はマーケットが大好きだ。
学生としては落ちこぼれだった自分が、クモの糸のようなチャンスを与えてもらった。

初めて発注ボタンを押したときの緊張。
初めて利食ったときの喜び。
初めて大損(といっても50万円だったけど)したときの絶望。

全部覚えてる。
一瞬で虜になって、勝てるようになるために必死に勉強した。
オプションやるために、数学も中学校の参考書から学び直した。
プログラミングも死ぬ思いしながら勉強した。
勝つために使えそうなものは、それこそなんでも貪欲に学んだ。
上しか見てなかった。
大好きなマーケットで、大好きな運用という仕事で、ただ結果を出したかった。

何度も「終わったかもしれない」という絶望も味わいながら、
自分の弱さを知ることで、強さとしたたかさを身につけていった。

でも時代は変わっていく。
2007年秋。
自分は「このままではディーリング業界はダメになる」と思って上司に改革案を提案した。
でもそれは当時所属していた会社の経営には届かなかった。

「契約ディーラーの君に言われることじゃない。」

当時の上司のその一言があったから、その会社を辞めた次の会社は成功報酬も返上で正社員の部長職としてディーリング部の立ち上げに携わった。
そこから数年は試行錯誤し、何とかしなきゃと足掻いては挫折してばかりだった。
シンガポールに渡って運用をし、ヘッジファンドの立ち上げも挑戦した。
そして色々とあって挫折。
自分の無力さを思い知った時期だった。

「このままじゃダメになる。そう分かっているのに何もできない。」

2010年。
アローヘッドが稼働し、HFTが一気に日本の市場に入ってきた。
2007年秋に「危険だ」と感じた存在。
システムの遅さが参入障壁になっているだけで、それによって彼らが入ってこれない日本市場で一カイ二ヤリばかりやっているようじゃダメになる。
しっかりとリスクと向き合い、相場と向き合い、流れを読んで収益を上げる。
その根本に立ち返らなければいけない。
その環境を作らなきゃいけない。

とても残念なことだったけれど、その予想は当たっていた。
でも、みんな「アローヘッドが悪い」「HFTが悪い」とうまくいかなくなったことを他者のせいにするばかり。
2000年代後半には欧米市場はすでに彼らが席巻しつつあったのに、それを知ることも、学ぶこともせず、将来訪れる危機に目を向けもしなかった自分たちの非を棚にあげて…。

「絶滅危惧種」

2000年代半ばには「我が世の春」を謳歌していたディーラー達につけられた修飾子だ。
知り合いも後輩達も、多くの人が下を向いてしまっていた。
「もうこの業界は終わる。ダメになる。ウチもいつまで続けられるのやら。」
縮小・撤退が相次いだ。
2800人ぐらいはいると言われたディーラー人口は、すでに十分の一ぐらいにはなっているだろう。

でもそこにはマーケットが大好きで、運用という仕事に憧れて、夢を持って挑戦してきた若い世代の後輩たちがいる。
彼らは可能性の塊だ。
可能性を示したかった。
まだやれるのだということを。
夢を持っていいのだということを。

でも足掻いても足掻いても思ったようにはいかないことばかり。
自分も疲れ果てていた。
そんなときに自分を拾ってくれたのが現在のグループ会社の社長だった。

「この方の下でなら実現できるかもしれない。」

そんな気持ちになれた。

その採用面接のときに話した構想。
それが現在の挑戦になる。

8年かかった。
正直、いろいろと大変だった。
時代に取り残されつつあったディーリング業界の中でも遅れていたと思う。
制度や手法や考え方。
このままじゃ間に合わないかもしれない。
強い危機感があった。
ずいぶんと外様のくせに耳の痛いことをガンガンと言わせてもらって、荒療治も強引な改革もやらせてもらった。

色んなこともあったけれど、ようやく2007年秋に構想したこと、そして2011年春にその会社の採用面接で話したことが形になった。

ヘッジファンド業界でガンガンやっている人達や、欧米のヘッジファンドの人から見たら、恐ろしくちっぽけな存在。
名前ももちろん誰も知らない。
そんな中でどれだけ見てもらえるのだろうか?
自分なんかが引っ張って、前に出て、どれだけ伝えられるのだろうか?

自分の奥底にある不安。
その不安を払拭するためには、ただ必死に出来ることを全力でやるしかない。


8月で初期の目標としていたAUMには到達しそうだ。
信頼を与えてくれる投資家に巡り合えたことや、励ましをいただいたり、応援してくださる方が沢山いたからこそ。
でもこれはまだ本当の意味でのスタートラインに立ったに過ぎない。
運用会社である以上、結果を出して投資家にしっかりとリターンという形で応えていく責任がある。

そして一緒に挑戦してくれた後輩達が、夢物語にしか過ぎなかったことを実現し、より大きく羽ばたいていけるようにしっかりと舞台を作ってやりたい。
そしてまた若い世代がそこを目指して夢をもって欲しい。

地場の証券ディーリング。
そこで切磋琢磨し、運用スキルを磨き、結果を出し続けた先に、また新たな夢を追えるステージを作る。
地場ディーリングでは、大きいポジション枠(運用額)と言われる人でもいいとこ数十億だろう。
ヘッジファンドなら、投資家に信頼を与えてもらえればその十倍、いやもっと大きな世界がそこには広がっている。
日本人ヘッジファンドの運用資産規模は小さいと言われる。
確かにPoint72やミレニアム、LightHouseといったところの人と話すと、自分たちのあまりの小ささを思い知らされる。
でもグローバルなスケールでみれば、そんなとんでもない世界がそこにはある。
それを知ることが出来るのも経験なら、それを知り、それを目指す若い人材が出てきてくれることも大事な可能性だ。

でも規模の大小が全てじゃない。
小さくても、大きくても、マーケットが大好きで、運用という仕事が好きならば、結局は同じこと。
どっちがすごいとか、上とか下とかも別にないと思う。

個人投資家でも。
ディーラーでも。
ファンドマネージャーでも。

マーケットが大好きで、運用という仕事が大好きならば、そこが夢を持てる世界であって欲しいと願う。自分がまだ若かったあの頃と同じように。
そして若い世代に、その夢の選択肢や目標を少しでも多く持てるようにしていきたい。
そう願って、これまでも、これからもただ必死に足掻いていこうと思う。

プロフィール

tetsu219

Author:tetsu219
元証券ディーラーです。
二十数年ディーラーやって、シンガポールにも一時期行ってヘッジファンドを立ち上げてみたりと色々やってきて、とある証券会社でディーリング部長になり、今はシンガポールでヘッジファンドの設立・経営をやっています。

基本仕事ネタです。
更新は気が向いたときだけ(^^;
でもこのブログを通じて運用を志す若い世代の人たちに何か伝えられること、その一助になればと思っています。

初期は限定記事にしていましたが、今は開き直って全部公開にしてますのでお気軽に(笑)

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