前回のブログで、安易なスタイルチェンジ、アレもコレもと手を出すことについて否定的な考えを書きました。
少なくとも自分なりの土台を作る過程においては…です。
沢山の若い運用者を見ていて、色気や欲から、自分の優位性がないような手法、それだけの時間や労力、エネルギーを避けていないフィールドでの戦いをしてしまって、そこで発生した損失が原因となって道が閉ざされるケースをいくつも見てきました。
また自分なりの土台をまだ作れていない状態で、ちょっとうまくいかない、特殊な市場環境かで損失が出てしまったということで簡単に方向性を変えてしまって、結局何をやっても自分なりの戦い方が構築しきれないまま中途半端に終わってしまうケースも見てきました。
それで失われる未来や、その可能性はあまりにももったいないと感じるのです。
まずは自己分析をしっかりやって、その方向性や目指す未来を明確にし、そのうえでどういったアプローチ、手法が最適かを考える。そしてそれをしっかり自分のものにしていくこと。それが生き残るための土台になります。
一方で、将来においてはスタイルチェンジが必要になるとき、それに迫られることも長い運用者人生においては起こりえることでしょう。
その原因として、大きなものは「制度変更」「環境の変化」などです。
特に、環境への依存度が高い運用手法である場合、特にそのリスクは高くなります。
その大きな実例は「アローヘッドの稼働(とそれをきっかけに一気に流入してきたHFTの取引増加)」でしょう。
それは短期売買、一カイ二ヤリの売買に依存しきっていた地場証券ディーリングを直撃し、地場ディーリングが絶滅危惧種と揶揄される大きなきっかけになりました。
アローヘッドの稼働や呼値の縮小などに対し、地場ディーリングや、デイトレーダーの多くが反発し、批判した人が多かったのも、自分達に不都合な変化だったからに他なりません。
でもその変化は「遅すぎた変化」であり、遅かった分「急すぎた変化」だったと自分は考えています。
欧米では2000年代半ばには、HFTの存在が大きなものになりはじめており、リーマンショック前ぐらいには取引シェアでは市場全体の過半を占める状況になっていました。(注文ベースなら圧倒的だったと思います)。
欧米で存在感を高める彼らの存在に、自分は2007年頃から危機感を抱いていました。
その頃の日本の取引所はというと…機械受注の発表(当時は14時発表だった)が一つのイベントになっており、その発表を待ち構える短期プレーヤーが多く、発表の都度、数分、下手すれば十分以上の遅延が生じるという始末でした。
ミリ秒、マイクロ秒、ナノ秒という世界で戦っているHFTから見れば、この取引所システムの遅さは致命的であり、それが参入障壁となって日本の取引所には入ってこないという状態だったのです。
世界の取引所基準から見れば、日本の取引所のシステムが遅すぎて見向きもされない状態だった…ということです。
結果、地場ディーラーはその参入障壁に守られていた。
黒船来航前に鎖国していた日本。
ちょんまげ刀で我が世の春を謳歌していた侍。
それがいつまでも続くと思い込んでいた。
それに似ている気がします。
そして開国。
時代は変わっていきました。
アローヘッドはある意味、日本株市場の「開国」であり、取引所のシステムが世界基準に追いつき、日本の取引所が存在感を維持するためには必要不可欠な変化だったと思います。
すっかり油断して、短期売買に依存しきっていた地場ディーリングは直撃を受け、一気に追い込まれて淘汰されていった。
それをアローヘッドのせいだとか、HFTのせいだとか批判してみても、もう遅い。
本来なら、欧米市場で起きていることに2000年代からちゃんと目を向け、いつか自分達の身にもそれが起きるときが来ることを自覚し、そのときのための対応を早い段階から取っておけば絶滅危惧種にはならなかったかもしれない…。
結局のところ、自分達の内向きの世界だけを見て、海外市場で起きていることに興味すら持たず、自らを時代の変化に適応させる努力を怠ってきた結果だったのだと自分自身は思っています。
強いていうならば、もっと早い時期からアローヘッドが稼働していて、欧米市場でのHFTの台頭に歩調を合わせる形で日本発のアローヘッドがいくつも出てくるような状況が作れていれば、外資のHFTに市場を席捲されるようなことにはならなかった気もしますし、その変化が遅かった分、急激であり過ぎた面はあるかなと感じてはいます。
欧米で何年も実績とノウハウを積み上げ、資金力も技術力も豊富な外資HFTに対して、日本の市場参加者には何の備えも出来ていないまま一気に開国してしまった。結果、日本発のHFTが育つ猶予がほとんどないままに外資のHFTに席捲されてしまった(ごく一部で頑張っているところもあります)。
このとき地場ディーラーの多くが、それまでの自分達の短期運用のスタイルが急激に通用しなくなる人が増え、多くの人が淘汰されていきました。その中でスタイルチェンジの選択をし、それを実現して生き残り、実績を伸ばしてきた人たちもごくわずかですがいます。
自分なりの戦い方がすでに確立できていたとしても、環境依存度が高い運用手法である場合、制度や環境の変化でその収益性が一気に低下し、アルファの源泉が失われてしまう。
大昔は有価証券取引税なんてものがあったり、空売り規制など、そういった制度や規制も少なからず影響を与えます。
アービトラージであれば、資金調達コスト(金利)にも左右されます。
ディーラーやファンドマネージャーであるなら、会社のルールや体制にも影響を受けます。
短期売買や薄利多売系の運用手法は総じて環境依存度が高く、制度や規制の影響を受けやすいといえます。
執行コストが高くなっただけでも利益が残らなくなってしまう可能性もある。
回線速度や、ブローカーや端末の速度、安定性。モニターなんかも気にする人もいますね。
HFTなんかは環境依存度が高い手法の最たるものではあるでしょう。
だからこそ彼らは環境構築には徹底的に資本を投じていく。
それこそ有価証券取引税なんてものが万が一にも復活したら、一気にいなくなるでしょうね。
長く運用をやっていると
市場のルール変更(規制や制度)、環境の変化(アローヘッドなどの例)、新たな市場参加者の台頭などによる様々な変化にさらされることがあります。
自分のスタートはオプション・ディーラーでした。
オプションを主に先物でヘッジなどもかけながら、アウトライトもある程度やらせてもらっていましたが、デリバティブ出身です。
しかし、1998年頃に上司に直談判して個別株にシフトさせてもらいました。特にITバブル期は個別株での利益が90%以上を占めていました。理由は、その時期に日経平均先物やオプションをやっていても、完全に取り残されると思ったからです。ソフトバンクも光通信も日経平均株価には採用されておらず、IT関連株が暴騰していく中で、株価指数の上昇もボラティリティもあまりにも限定的で、そこで戦っていても効率的な収益を上げられないと判断したからです。
その後、ITバブルが崩壊し、空売り規制、アップティック・ルールが導入されたりした段階で、派生商品を主に戻していきました。相場が下がると思っていても、ショート・ポジションを取ることが規制されている状況では、自分の相場観を適切に反映させることができないと判断したからです。ポジショントレードやアービトラージ、ロングショートなどもやった時期もあります。そういった対応力や柔軟さは、自分の助けにはなったと思っています。
もし環境依存度が高い運用手法をベースに戦っているなら、そういった変化に合わせたスタイルチェンジの必要性が出てくることもあるでしょう。
ただある手法を確立し、それに自信があればあるほど、成功体験があればあるほど、あえて新しい手法に取り組むというモチベーションが保てなかったりしがちでもあります。
まずは自分の軸になる戦い方を確立する。
その手法がどういった前提条件で機能しているか自覚しておくこと(環境や制度依存の度合い)。
その環境の変化に対して、柔軟に対応できるようにスタイルチェンジすることや、それに備えて異なるアプローチにも取り組んでおくことは必要なものだと思います。
全ては土台をしっかり作ってからだとは思いますが。
個人であれ、組織であれ、時代の変化の中で「自らが変わらなければならない局面」は必ず訪れます。
自らをアップデートし続けることが必要になる。
そういった意味でのスタイルチェンジは必要な変化だと思います。