シンガポールでファンドを立ち上げ、新しい挑戦を始めた2019年。
最初は誰も相手にしてくれないのではないか、という不安との戦いだった。
「中小証券のディーリングなんてオワコンでしょ。」
あからさまにそんな態度を取られたミーティングもあった。
香港でも明らかに馬鹿にされたような態度に、何度も机叩いて出て行こうかと思う悔しいミーティングもあった。
運用を志す、経験もお金もない若い世代の人達に一つの道を創る。
投資家の資金の担い手となれる人材を一人でも多く世に送り出し、彼らの未来を共に切り開き、より大きな世界に羽ばたいていけるようにサポートしたい。
そんな思いでこの取り組みを始めた。
頭の中には10年以上前からずっとあった「想い」と「構想」。
イチカイニヤリ、日計りに依存し、ストラテジーの多様化や人材育成を怠ってきた地場証券のディーリング。
淘汰は当然のことだと感じていた。
研究開発や人材育成といった次世代への投資を怠れば、その企業も業界も未来はない。
地場証券のディーリングのマネジメントの立場を与えていただき、必死に変革に取り組んだ。
「運用」をちゃんと出来る環境と、人が育ち、夢を追える環境を創りたい。
古い体制やルールで雁字搦めの中で、改築・増築といった変革ではあったかもしれないけれど、当初は想像も出来なかったようなことが実現出来るまでになった。
2011年、自分の採用面接の時に自分が語ったこと。
シンガポールや香港で運用拠点を作り、ビジネスとしての発展性を持たせ、ディーリングを通じて成長した人材の次のステージを創る。
そのときはほぼ誰も信じてはいなかっただろう。
当時の上司には「立派な目標だけど、ウチじゃ無理だよ」と言われた。
そんなところからのスタートだったけれど、今はこうしてシンガポールにディーリングの拠点もあり、ヘッジファンドとしての取り組みも実現した。
地場証券が立ち上げたヘッジファンド。
不安だらけ、まぁ相手にされないことも覚悟の上でのスタートだった。
でも信頼してくれている後輩達の為にもやってみせなければ。
という想いだけで懸命に取り組んだ。
そしてそんな自分達を見つけてくれ、信頼を預けてくれる投資家にも出会えた。
その結果、想定を大幅に上回る一年目となった。
未来が大きく開けてきた…と思った矢先のコロナだった。
2020年は本当に苦しいことや辛いことも沢山あった。
ようやくそのトンネルも出口が見えつつある。
この苦しい中で経験したこと、それを乗り越えてきたチームメンバー、それを見守り支援し続けてくれた投資家の方々、全てが宝だと思う。
このビジネス自体は、本来違う人に担ってもらう予定だった。
自分自身はディーリング部に残り、若い人材の育成に取り組み続ける。ヘッジファンドの看板背負うのはもっとキャリアもキラキラしてて、英語もペラペラの人がやった方がいいと思っていたからw
自分はそれを支える役割を黒子としてやるつもりだった。
シンガポールを選んだのも必ずしも自分ではなかった。
ただ当時そこにいく予定の後輩達に希望を聞いたらそこだったということと、自分も10年ほど前にシンガポールに住んでいたことがあるし、SGXでの取引を通じて友人も多数おり、地の利があったからだ。
自分が企画立案してはいるものの、色んなことが想定外。
でもこうなるべくしてなったんだろうと思う。
誰かがやらなきゃいけないのなら、最も荷の重い仕事は喜んで背負おうと思う。
知らないことばっかりで、色んな人達にヘッジファンドのストラクチャリングをイチから教わり、知らない単語をミーティングの度に聞いて、正にゼロからの勉強だった。ファンドのオペレーション、税務、コンプライアンス、リスク・マネジメント…。当時のミーティングメモは今でも教科書だ。
最小限の人員構成でのスタート。
オペレーション・フロー構築、朝から深夜までプログラミング。
CEO・CIOと言ってもふんぞり返って指示してればいい訳じゃない。
自分が誰よりも面倒なことを背負っていかなければいけなかった。
少し余裕が出来たときに、東京から信頼できる後輩に来てもらって助けてもらえたのは大きかったな。
その余裕も昨年の苦境で逆戻り。
今は色々と背負いながら、必死にこなしてる。
でも後輩達の頑張りで、ようやくまた前を向いて取り組むことが出来そうだ。
苦しかった一年。
どんなに辛かったり、苦しいことがあっても
若い運用を志す人達の未来とその選択肢を増やしていくという想いだけは変わらなかった。
昨年の相場では、すごく乗れた人もいれば、大きなダメージを受けてしまった人もいるだろう。
それぐらい極端な相場だった。
そんな特別な一年の結果だけで、自分の未来や可能性を諦めないで欲しいと思う。
運用業界の未来。
日本、東京では様々な人がそれを創ろうと取り組み、より良くしていこうという動きが強まっている。
セミナーやカンファレンスにお声掛けいただいたり、当局の方からもご相談いただいたりもしながら、その変化と熱気に「本気」を感じる機会も増えてきている。
自分が若手の頃は、アジアの金融センターと言えば「東京」だった。
それがいつしか香港やシンガポールに取って替わられていった。
国家間のビジネスセンターとしての魅力や環境の競争。
かつての地位に胡座をかき、変革することを受け入れず(民主主義国家の中では難しい変革ものあるだろうが)、魅力を失っていった日本。
80年代、世界を席巻していた日本企業の多くが凋落していった姿にかぶるものを感じていた。
最近の取り組みからは、「これまでのかけ声倒れとは違う何か」を感じる。
これからの日本、東京は運用業界にとって面白い場所になっていく気がしている。
そしてそこには多様なタレントが必要だ。
新しい次世代の運用の担い手として、様々な場所からそんな人達が生まれ出て欲しいと願う。
その一つの道として、我々の取り組みも貢献できたらと思う。