【ビジネス】変化
4年前と現在。
最近、仕事していて思うことが沢山ある。
色んな思いを抱えて、今の会社に入社した4年前。
東日本大震災の直後だった。
地場証券のディーリングは絶滅危惧種と揶揄され、3000人近くもいたディーラーも1000人を切る水準まで急速に減っていった。
いくつかの会社が廃業を選択し、いくつもの会社でディーリング部は縮小・撤退が相次いだ。
その一年前。
東証アローヘッドが稼働した。
取引の処理能力が飛躍的に向上し、しょっちゅう遅延を起こすようなドンくさいシステムが一気に高速売買に対応できるようになった。
そしてHFT(超高頻度取引・超高速取引)を行う業者が一気に日本市場に流れてくる。
米国市場ではHFTの売買シェアが最大となったのは2009年(欧州では2010年)。当時70%近い水準までのシェアを誇っていた。
2010年5月に米国市場で起きたフラッシュ・クラッシュ。
瞬間的な暴落が発生し、数分の間にNYダウが▲1000ドル近くも下げ、そして数分の間に戻った。
その当時は「HFTのせいで起きた」なんて間違った理由を堂々という人が沢山いた。
HFTが主たる要因ではないことは明らか。
でもHFTにその流動性を依存しきった市場構造の脆弱さが示されたということはいえるかもしれない。
欧米では2000年代に急速に売買シェアを伸ばしていったHFT。
日本での実質的なHFT元年はアローヘッド稼働の2010年といっていいだろう。
それまでのドンくさい取引所システムでは彼らの超高頻度(超高速)の取引を執行できる環境ではなかったから。彼らのスピードで発注・訂正・取消・約定を繰り返せば、アローヘッド前のシステムでは明らかに遅延どころか大変なことになったと思う。
そしてアローヘッド(大証はJ-GATE)が稼働して、高速なインフラが整い、ようやく彼らは本格的に日本市場に参入してきた。
当時、日計り、板張り、一カイ二ヤリと言われる短期取引がほとんどだった地場証券のディーリング。
資金余力に限界のある地場では、お金がかかるオーバーナイト取引(日をまたぐ取引)を嫌い、そしてリスクについても保守的になっていっていた。ちょっとやられただけですぐに売買を止める。大きな損が出ないように出来るだけ短期間に売買を完了させようとしていた。
その結果、先のような日計り、板張り、一カイ二ヤリが主流とならざるをえなかったといえる。
そしてその売買手法にとってHFTは天敵だった。
「瞬き」は100ミリ秒~150ミリ秒といわれる。
その間に何十回、何百回となく売買を繰り返すHFT。
今、見えていた板が全く信用できなくなっていく。
板を見て、場の雰囲気や流れを読む。
「板カン」が通じなくなっていく。
そしてそういった売買に偏っていた地場証券のディーリングの収益は一気に悪化していく。
そして先のような廃業、撤退、縮小につながっていく。
多くのマネジメントやディーラーが「アローヘッドのせいで儲からなくなった」「HFTのせいで苦しくなった」と声高に不満をぶつけていた。
でも取引所システムが高速になり、より処理能力が上がることは決して間違ったことではない。
そしてシステム投資にお金をかけ(彼ら(HFT)はインフラ、システムには徹底的にお金をかける)、徹底的に分析・研究を行い、市場の隙間を発見し収益機会を見出していくことも間違ったことではない。
HFTに関する問題の本質は、また別のところにある。
うまくいかなくなったことを外部要因や他人のせいにしている限り、いずれは消えゆくことになる。
2000年代に欧米市場で起きていたことを知る努力、学ぶ努力をしていれば、アローヘッド(J-GATE)が稼働すると日本市場でどんな変化が起きるのかは容易に想像できることだ。
そしてそれに対して何をすべきなのか?
我々自身がどう変わるべきなのか?
「この世に生き残る生き物は、最も力の強いものか。そうではない。最も頭のいいものか。そうでもない。それは、変化に対応できる生き物だ」
ダーウィンが言ったかどうかは知らないけれど、進化論でよく引用される言葉。
当時、これを講演やセミナーで何度も使った記憶がある。
HFTほど資金力、システム、分析能力がないのであれば、自分たちが何を持っていて、それをどう活かせばこの市場で勝ち残れるのかを考え、そこにリソースをしっかりと持っていき、適正なリスクを取っていくこと。
それが必要だとずっと感じていた。
変わろうとしないマネジメントに失望し、何か行動し、示していかなければという思いがあった。
地場証券のディーラーを辞め、シンガポールに渡ったり、小さいけれどヘッジファンドを立ち上げたこともあった。
知らないことは外資系証券や大手証券の友人たちに聞いて回った。
日本の個人金融資産はいまだに世界第二位だ。
資源のないこの国だけれど、この個人金融資産は「資源」になりえる。
その資源が国内で有効に活きてくれば日本はまだまだ力のある国だ。
数百億の資産を持つ投資家とも話した。
数千億の運用をしている欧米のヘッジファンドの方々とも話した。
そして自分が生きてきた世界の小ささを思い知った。
その個人金融資産の受け皿になりえる運用者が育つ土壌をしっかりと守る必要性を感じた。
まずは自分が社会に出てからずっと沢山の夢を与えてくれた地場証券のディーリング。
ここを守るには変えなければいけない。
そのためには何を変えなければいけないのかを知らなければいけない。
外の世界を知ったことが自分にとって大きな財産にもなった。
今の会社に入社したとき、今までいた数社の地場証券以上に保守的な環境にあった。
とても経営は前向きなのに、現場でやっていることは他の地場証券に比べても大きく立ち遅れていた。
そこに危機感を持つマネジメントはほとんどおらず、今までこれでやってきたんだから…という空気が蔓延していた。
やらなければいけないと思っていたことが沢山あった。
「でもここでは難しい」
それが第一印象だった。
何度も上とぶつかった。
上司を怒鳴りつけるとか、今思えばとても失礼なこともした。
でもこの小さな世界の中だけでしか仕事をしてきていなければ、理解できないのが当たり前だ。
そう自分に言い聞かせながら、数えきれないほど議論した。
何度も失望しながら、何度も怒りながら、何度もあきれながら…。
その頃、ディーリング部が抱えていた問題は後ろ向きなことばかりで、前向きなことに取り組むどころか頻発するトラブルの対処に追われるばかり。
なんとか外部のブローカーの友人たちの協力で新しいことに取り組んでみても、ディーラーもバラバラだし、管理部門も嫌々やっているような状態が明らかだった。
諦めるのは簡単だったけれど、簡単な道を選んでしまえば楽なのはそのときだけだ。
自分が若い頃。
ディーラーとして上を見続け、夢を追い続け、大好きな仕事とマーケットに夢中になれた時代だった。
今、未来に不安を抱え、この仕事に失望し、どこか下を向いてしまっている後輩たちがいる。
彼らがもう一度夢を追える場所にしていきたい。
そのためには会社を変えていかなければいけない。
もしかしたら業界すら変えていかなければいけない。
何かを変えるってそんなに簡単なことじゃない。
そんな大それたことを考えるのなら苦労はして当たり前。
そしてそれは決して一人で出来る事ではない。
沢山の人が理解し、思いを共有し、力を貸してくれなければできないこと。
そんな思いがあったから社内でも、社外でも、ブログでも、FBでも語ることをし続けた。
ディーラーだった頃は楽だった。
もっと強くなりたい、もっと稼げるようになりたい、あれを出来るようになりたい。
そう思うのなら、自分が努力すればなんとかなった。
中学校の参考書から数学の勉強やり直したり、PCスキルを磨く努力をしたり、プログラミングを覚えたり、テクニカル分析を研究したり、マーケットのことを勉強したり…。
寝る時間を削って勉強した。
でもそれだけで凡人だった自分でもそれなりのディーラーにはなれた。
でも今抱えている思いや願いを形にするには「人」の力を借りなければいけない。
会社で何か新しい取り組みをするにしても様々な部署にいる「人」が力を貸してくれなければいけない。
それはとても困難なことだけど、根気よく一歩ずつ変わっていくしかない。
諦めずに頑張ってこれたのは誰よりも理解を示し、信頼を与えてくれた社長がいてくださったからかもしれない。
4年前を振り返り、現在の会社を考えたとき、小さな世界に過ぎないけれど「変わった」という手応えを感じられる。
そう感じられるのはみんなのおかげだ。
自分の周囲にいる人たちにもそう思ってもらえるように、自分がここにいたことをよかったと感じてもらえるように、精いっぱい応えていかなければと思う。
かつては自分自身で奮起し続けたモチベーション。
今はみんながそのモチベーションを与えてくれる。
さぁ頑張ろう!
最近、仕事していて思うことが沢山ある。
色んな思いを抱えて、今の会社に入社した4年前。
東日本大震災の直後だった。
地場証券のディーリングは絶滅危惧種と揶揄され、3000人近くもいたディーラーも1000人を切る水準まで急速に減っていった。
いくつかの会社が廃業を選択し、いくつもの会社でディーリング部は縮小・撤退が相次いだ。
その一年前。
東証アローヘッドが稼働した。
取引の処理能力が飛躍的に向上し、しょっちゅう遅延を起こすようなドンくさいシステムが一気に高速売買に対応できるようになった。
そしてHFT(超高頻度取引・超高速取引)を行う業者が一気に日本市場に流れてくる。
米国市場ではHFTの売買シェアが最大となったのは2009年(欧州では2010年)。当時70%近い水準までのシェアを誇っていた。
2010年5月に米国市場で起きたフラッシュ・クラッシュ。
瞬間的な暴落が発生し、数分の間にNYダウが▲1000ドル近くも下げ、そして数分の間に戻った。
その当時は「HFTのせいで起きた」なんて間違った理由を堂々という人が沢山いた。
HFTが主たる要因ではないことは明らか。
でもHFTにその流動性を依存しきった市場構造の脆弱さが示されたということはいえるかもしれない。
欧米では2000年代に急速に売買シェアを伸ばしていったHFT。
日本での実質的なHFT元年はアローヘッド稼働の2010年といっていいだろう。
それまでのドンくさい取引所システムでは彼らの超高頻度(超高速)の取引を執行できる環境ではなかったから。彼らのスピードで発注・訂正・取消・約定を繰り返せば、アローヘッド前のシステムでは明らかに遅延どころか大変なことになったと思う。
そしてアローヘッド(大証はJ-GATE)が稼働して、高速なインフラが整い、ようやく彼らは本格的に日本市場に参入してきた。
当時、日計り、板張り、一カイ二ヤリと言われる短期取引がほとんどだった地場証券のディーリング。
資金余力に限界のある地場では、お金がかかるオーバーナイト取引(日をまたぐ取引)を嫌い、そしてリスクについても保守的になっていっていた。ちょっとやられただけですぐに売買を止める。大きな損が出ないように出来るだけ短期間に売買を完了させようとしていた。
その結果、先のような日計り、板張り、一カイ二ヤリが主流とならざるをえなかったといえる。
そしてその売買手法にとってHFTは天敵だった。
「瞬き」は100ミリ秒~150ミリ秒といわれる。
その間に何十回、何百回となく売買を繰り返すHFT。
今、見えていた板が全く信用できなくなっていく。
板を見て、場の雰囲気や流れを読む。
「板カン」が通じなくなっていく。
そしてそういった売買に偏っていた地場証券のディーリングの収益は一気に悪化していく。
そして先のような廃業、撤退、縮小につながっていく。
多くのマネジメントやディーラーが「アローヘッドのせいで儲からなくなった」「HFTのせいで苦しくなった」と声高に不満をぶつけていた。
でも取引所システムが高速になり、より処理能力が上がることは決して間違ったことではない。
そしてシステム投資にお金をかけ(彼ら(HFT)はインフラ、システムには徹底的にお金をかける)、徹底的に分析・研究を行い、市場の隙間を発見し収益機会を見出していくことも間違ったことではない。
HFTに関する問題の本質は、また別のところにある。
うまくいかなくなったことを外部要因や他人のせいにしている限り、いずれは消えゆくことになる。
2000年代に欧米市場で起きていたことを知る努力、学ぶ努力をしていれば、アローヘッド(J-GATE)が稼働すると日本市場でどんな変化が起きるのかは容易に想像できることだ。
そしてそれに対して何をすべきなのか?
我々自身がどう変わるべきなのか?
「この世に生き残る生き物は、最も力の強いものか。そうではない。最も頭のいいものか。そうでもない。それは、変化に対応できる生き物だ」
ダーウィンが言ったかどうかは知らないけれど、進化論でよく引用される言葉。
当時、これを講演やセミナーで何度も使った記憶がある。
HFTほど資金力、システム、分析能力がないのであれば、自分たちが何を持っていて、それをどう活かせばこの市場で勝ち残れるのかを考え、そこにリソースをしっかりと持っていき、適正なリスクを取っていくこと。
それが必要だとずっと感じていた。
変わろうとしないマネジメントに失望し、何か行動し、示していかなければという思いがあった。
地場証券のディーラーを辞め、シンガポールに渡ったり、小さいけれどヘッジファンドを立ち上げたこともあった。
知らないことは外資系証券や大手証券の友人たちに聞いて回った。
日本の個人金融資産はいまだに世界第二位だ。
資源のないこの国だけれど、この個人金融資産は「資源」になりえる。
その資源が国内で有効に活きてくれば日本はまだまだ力のある国だ。
数百億の資産を持つ投資家とも話した。
数千億の運用をしている欧米のヘッジファンドの方々とも話した。
そして自分が生きてきた世界の小ささを思い知った。
その個人金融資産の受け皿になりえる運用者が育つ土壌をしっかりと守る必要性を感じた。
まずは自分が社会に出てからずっと沢山の夢を与えてくれた地場証券のディーリング。
ここを守るには変えなければいけない。
そのためには何を変えなければいけないのかを知らなければいけない。
外の世界を知ったことが自分にとって大きな財産にもなった。
今の会社に入社したとき、今までいた数社の地場証券以上に保守的な環境にあった。
とても経営は前向きなのに、現場でやっていることは他の地場証券に比べても大きく立ち遅れていた。
そこに危機感を持つマネジメントはほとんどおらず、今までこれでやってきたんだから…という空気が蔓延していた。
やらなければいけないと思っていたことが沢山あった。
「でもここでは難しい」
それが第一印象だった。
何度も上とぶつかった。
上司を怒鳴りつけるとか、今思えばとても失礼なこともした。
でもこの小さな世界の中だけでしか仕事をしてきていなければ、理解できないのが当たり前だ。
そう自分に言い聞かせながら、数えきれないほど議論した。
何度も失望しながら、何度も怒りながら、何度もあきれながら…。
その頃、ディーリング部が抱えていた問題は後ろ向きなことばかりで、前向きなことに取り組むどころか頻発するトラブルの対処に追われるばかり。
なんとか外部のブローカーの友人たちの協力で新しいことに取り組んでみても、ディーラーもバラバラだし、管理部門も嫌々やっているような状態が明らかだった。
諦めるのは簡単だったけれど、簡単な道を選んでしまえば楽なのはそのときだけだ。
自分が若い頃。
ディーラーとして上を見続け、夢を追い続け、大好きな仕事とマーケットに夢中になれた時代だった。
今、未来に不安を抱え、この仕事に失望し、どこか下を向いてしまっている後輩たちがいる。
彼らがもう一度夢を追える場所にしていきたい。
そのためには会社を変えていかなければいけない。
もしかしたら業界すら変えていかなければいけない。
何かを変えるってそんなに簡単なことじゃない。
そんな大それたことを考えるのなら苦労はして当たり前。
そしてそれは決して一人で出来る事ではない。
沢山の人が理解し、思いを共有し、力を貸してくれなければできないこと。
そんな思いがあったから社内でも、社外でも、ブログでも、FBでも語ることをし続けた。
ディーラーだった頃は楽だった。
もっと強くなりたい、もっと稼げるようになりたい、あれを出来るようになりたい。
そう思うのなら、自分が努力すればなんとかなった。
中学校の参考書から数学の勉強やり直したり、PCスキルを磨く努力をしたり、プログラミングを覚えたり、テクニカル分析を研究したり、マーケットのことを勉強したり…。
寝る時間を削って勉強した。
でもそれだけで凡人だった自分でもそれなりのディーラーにはなれた。
でも今抱えている思いや願いを形にするには「人」の力を借りなければいけない。
会社で何か新しい取り組みをするにしても様々な部署にいる「人」が力を貸してくれなければいけない。
それはとても困難なことだけど、根気よく一歩ずつ変わっていくしかない。
諦めずに頑張ってこれたのは誰よりも理解を示し、信頼を与えてくれた社長がいてくださったからかもしれない。
4年前を振り返り、現在の会社を考えたとき、小さな世界に過ぎないけれど「変わった」という手応えを感じられる。
そう感じられるのはみんなのおかげだ。
自分の周囲にいる人たちにもそう思ってもらえるように、自分がここにいたことをよかったと感じてもらえるように、精いっぱい応えていかなければと思う。
かつては自分自身で奮起し続けたモチベーション。
今はみんながそのモチベーションを与えてくれる。
さぁ頑張ろう!