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良いお年を!

今年は色々とあった年でした。

 

昨年後半にシンガポールに渡り、色々と模索する中で日本でファンドを立ち上げる決断をして帰国。何人かの友人と共に今の会社を立ち上げました。

 

 

初めてのことだらけの挑戦。

 

 

そして自分の思うようにはいかないことばかり…。
そんな中で失ったものもあります。
そして傷つけてしまった仲間もいます。

 

 

でも共に苦労を分かち合ってくれる仲間。
支えてくれる友人たち。
多くの人たちの支援の中で一歩ずつ進んできたこの一年間でした。

 

 

決して順風満帆ではなく、波瀾万丈な一年間。
最後の最後でまたキツイのがありそうです…(^_^;)

 

 

一人だったらここまで耐えられなかった。
仲間や友人たちがいてくれたから耐えてこられた。
そして最後まであきらめない力をみんなが与えてくれたと思っています。

 

 

こうしてここまで来れたこと。
迷った道でさえも、これからの自分にとっての貴重な経験であったと思えるように、決してあきらめず、来年も前を向いて歩いていきたいと思っています。

 


Twitterやブログを始めたのは9月ぐらいから。

それまではネット絡みのことはあまりやっていなかったんですが、それらを通じて知り合いもできて、共感し合える人たちもいました。

 

忙しくてなかなか会うことが出来ない友人たちもブログを見てくれたりして、久しぶりにお互い連絡取り合ったりも出来ました。

 

 

『本厄』に見合うだけ、苦しい一年間でした。

 

 

でもその経験がこれからに生きていくように。
自分自身がより強くなれるように。

 

良かったことも悪かったことも、全て正面から受け止めて前を向いて歩いていきます。

 

来年がみんなにとって良い年になることを。
そして日本の株式市場にとって変化の年になることを心より願っています。

 

 

良いお年をお迎えください。
今年一年ありがとうございました。

 

 

しがないディーラーこと(工藤 哲哉)

【日常】MADO閉店!

今日、先輩がオフィス近くに寄ってくれてお茶した。

そこで始めて聞いたんだけど、MADO (マドリード)が今日で閉店とのこと。

そのまま何人かの仲間と合流してMADO に。

そこにはディーラー仲間が何人もいた。

証券会社で兜町界隈で働いていた人なら、かなりの人がお世話になった店だと思う。

証券業界の厳しい現状と、みんながお世話になってきたMADO の閉店が重なり、なんとも寂しく感じた。

来年はみんなが少しでも希望を持てるようになればいいんだけど。

【回想録】混迷のとき

若手の育成は少しずつだが前に進み始めていた。



新卒のメンバー、そして中途でインド人のGやとても優秀で期待が持てるMなども入社し、彼らの成長が楽しみだった。



一方で、ディーリング部全体は徐々に追い込まれつつあった。



稼げているメンバーもある程度いたものの、逆にかなりの損失を出すディーラーも出てきて、部としては目標未達が続き、月次で赤字に陥ることもあった。



部の運営コストがおおよそ月に7000万~8000万。誰かがある程度稼いでも、誰かが穴をあければ利益は残らない。調子のいいときの自分なら一人でもカバーできる金額だったが、一時期に比べれば収益落ち込み、徐々に不安定さも出てきていた。



今のままではいけない。そんな危機感が強くなっていた。



この部を守るために…今ここで頑張っている若手のみんなが将来を夢見れる場所を守るために誰かがやらなければ。



そして自分は契約ディーラーでありながら、チーフディーラーという肩書きをもらってマネジメント補佐もするようになる。



しかし、そこにはあまりにも多くの壁があった。

ディーリング部というのは社内でもかなり特殊な部署。

良くも悪くも浮いている。



当然といえば当然だ。

寄り付き直前に来て、引けたらすぐに帰り、服装は自由。

成功報酬は異常に高くて年収億超えプレーヤーも何人かいた。

そして派手な生活(自分も途中からあんまり人のこといえなくなったけど…)。



一方で、事務方や管理部門の人たちは朝から遅くまで働いて、上司の評価やボーナスの増減に一喜一憂。建前上、我々フロントが稼げば会社が儲かり、彼らもハッピーになるはずなのだが、現実はかけ離れていた。



そしてその時期、数千万~億の損失を出して会社を辞めるディーラーも出てきていた。

彼らからみれば、損を出して会社に迷惑をかけておいて、当の本人は他社に移籍してゼロから始める。

それを強く批判する声も少なくなかった。



端的にいえば、ディーリング部は嫌われていた。





ある日、外資系証券のヤツと飲んでいたら、たまたま別席に自分の会社の事務方の人たちが飲みに来ていた。

自分は本社から離れた場所でしか働いていなかったから面識はなかったが、一緒に飲んでいた彼は若手の頃にその会社にいたことがあり、知り合いとのこと。



『紹介させてもらっていいですか?』



『あ、うん。俺も日頃お世話になってるから挨拶したいし。』



とその人たちの席にいき、紹介してもらって挨拶をした。



彼らの反応は冷たかった。



『君もスーパーディーラーとやらの一人なの?ふーん。』

『じゃ、金いっぱい持ってんだ。』

『いいよね、好き勝手やれてさ。』



いきなり初対面で…と思いもしたが、紹介してくれた彼の手前、さりげなく頭下げて『よろしくお願いします。』とだけ伝えてその席を離れた。



すぐにその外資系のヤツが自分に謝る。

どうやら彼らは自分より年下でもあったし、そいつからすると信じられない暴言に取れたらしい。



『いいよ。大丈夫。そういう目で見られている現実を知ることも必要だし。ま、変に若作りな俺も悪いし…(^_^;)』



とその場はやり過ごしたが、すごく残念な現実を思い知った出来事だった。



管理部門に嫌われている部署。

普段はディーラーだけで過ごしているから感じないで済んでいたが、これはマズイな…と強く思った。



ディーリング部で何かを変えていくためには彼らのような管理部門の協力は欠かせない。





例えば、その会社に移籍したとき『リスク管理部門』を作ってほしいと要請したことがある。



『彼』と二人で先物バタバタやっていると、一日に1万枚~2万枚やることもあり、先物手口常連の会社になっていた。



その会社のリスク管理は経理部で行われていたが、それはディーラーの目から見ても不十分なものに思えた。手数料の計算ですらいい加減だったから(ボリューム・ディスカウントの計算が出来ていなかった)。



これだけ目立っているのだから、管理体制はしっかりしてもらわないといけない。そう思って『彼』と二人で要請したのだが、それが実現するまで3年近くを要している。決してわがままなお願いではなかったはずなんだけど。





その時期、相場は大きく変化しつつあった。

株ブームの終焉とともに、日本株離れが起きつつあり、株なら新興国市場、そして為替への資金は流れていきつつあった。

小泉政権が終わり、その後の政治混迷もあって、日本はどんどん地盤沈下していく。

日経平均株価が上がろうが下がろうが、日本時間で動くことが少なくなっていた。

指数が何日かかけて1500円下がっても、東京時間の下落幅は合計でも200円~300円。上がったときも同じようなもの。




とにかく東京時間で値幅が出ない。

トレンドは完全に夜に作られていた。



こんな状態で日計りやらせていたら稼げなくなる。

収益機会の多い商品や市場へのシフト、動く時間帯へのシフトをしなければならない。



そのためにも管理部門の協力が必要だった。

ただ契約ディーラーである自分の立場には限界があった。

部長に案を提出し、あとは待つしかできなかった。





そんな焦りや苛立ちの中で、ある月に自分自身の足元をすくわれてしまうことになる。


【回想録】育成のとき…6

株ブームの終焉…しかし、そこで個人投資家は終わらなかった。



それまで個人投資家と言えば『逆張り指標』的な見方をする市場関係者が多かったが、株ブームを経てからの個人は様変わりしていた。



よりしたたかになり、ヘタなプロよりも真剣にマーケットと対峙していた。



彼らは日本株がダメなら…と、中国株やベトナム株、FX…どんどんと収益機会を求めて能動的に動いていた。



そんな中で日系中小証券のディーラー達は、ただこれまでと同じことを続けていた。



海外市場をやろうと思ってもリスク管理やコンプライアンス管理という壁にぶつかり先に進めない。



夜間取引一つとっても、松井証券などがCMEを取扱い、個人投資家ですら夜間売買をするようになっているのに、我々は規制だらけで前に進めなかった。



最初は会社からじゃないと発注してはいけない。

次に管理者(部長)が立ち会っていないと発注してはいけない。



現実的に夜間取引をしたいから部長に朝まで付き合ってくれなんて言えるわけがない。

そして外資系証券のプロップ(自己取引)では、事前登録をしてあるトレーダーは夜間売買を自由に行っていた。



同じ日本に存在する証券会社においても明らかな二重基準。



海外先物、せめてアジアのものだけでも(時間帯が東京の日中に行える)やれるようにしようと働きかけたが、半年経っても前に進まなかった。



『このままではいずれディーリングは生き残れなくなる…。』



この頃からそういった危機感は強くなった。



稼げるポテンシャルを持った人材でも、運用の自由度がない中で、東京市場に依存した状態では生き残るのは難しい。



会社によってはオーバーナイトすら禁じていたし、コンプライアンスに関する基準は恐ろしいほど高くなっていた。



取り消しなんかも安易にできない。

しかし、システム(アルゴ)がそれを行うのは不問とされる。



圧倒的に不利な状況が生まれつつあった。

手かせ足かせをハメられて戦えと言われているに等しい。



かつて、ネット証券の台頭、そしてデイ・トレーダーと言われる個人投資家が急増するまでの間、ディーラーは圧倒的に優位な環境にあった。



顧客が電話で板状況を聞いて、それから電話で注文して、それを取り次ぐ…。

その間にディーラーは自分の目の前にある板を観ながら発注することが出来た。



環境の優位性。

それに加えて市場情報においても優位な環境が常にあった。

ある意味では勝てて当たり前だったかもしれない。



しかし、インターネットの普及やシステムの発達により、その優位性はほとんどなくなっている。



このままではいけない…そんな危機感を持ちながら、今余力のあるうちに動かなければという焦りが強かった。

しかし、会社に色々と提案してもなかなか前には進まなかった。





人材育成の方は、順調とは言えなかったが少しずつ前に進んでいった。



新規採用した二人。



Oはかなりの困ったちゃん(^_^;)

ある証券を3か月でクビになり、ウチを受けに来ていた。



「標準偏差で順張りしてる」



と面接で堂々とワケのワカラン能書きをたれてくれていた(笑)

最初は無理だろ…と思っていたが、熱意はあった。



そして海外留学経験があり、語学力堪能であったため、人事部長と話し合い、彼がディーラーとしてダメだった場合でも会社としては欲しい人材かどうかを確認した。



そのうえで本人が諦めつくまでやらしてやりたいとお願いして採用。

ただ予想通り…彼は色々な伝説作ってくれました(-_-;)



月間損失限度は100万円。

ポジション枠は1000万円。

オーバーナイトは禁止(のはずだった)。



このルールで、Oが売買を始めて2日目のこと。

新日鉄が急騰した日。

ザラ場の動きは押し目なしのほぼ右肩上がり。



値動きとしてはいい銘柄だったし、コイツに手を出していることはよかった。

ただ内容が…(^_^;)



そんだけ強い銘柄を買っては投げ、売っては踏み…。

挙句の果てに買い持ちでオーバーナイトのルール違反までしていた。

しかもオーバーナイトロングの数分前に売りから入って踏まされてる。



強気なんだか弱気なんだか…(^_^;)

完全に値動きに振り回されてる売買内容だった。



『コイツは危ない』



そこからしばらくOについては無茶なロスを出させないことが自分の課題になった。

どこかで『相場を仕掛ける』とか、そういったことをカッコイイと思ってるところがあったO。



相場は仕掛けるものではなく、自分の力で動かすべきものでもない。

我々の仕事は相場の流れを読み、それに乗るのが仕事。

その意識改革を時間をかけてやらなければならなかった。



最終的にOは自分が異動を申し伝えなければならなくなった。

最後に銀座のすし屋に連れていってやり、そこでサシで色々と話ながら異動を伝えた(運用に携われる部署だった)。



そこで最後に



『何か俺にしてほしいことあるか?』



『キャバクラ連れていってください。』



それがOというヤツだった(^_^;)

コイツはそれ以外にも数々の伝説を残した。

自分にとってはとても印象の強い部下だった。





もう一人の困ったチャンのH。

こいつは面接でいきなりパチスロ必勝法を自分と人事部長、ディーリング部長に語り始めたヤツ。



社会人としては指導するのが大変なヤツだとは思ったが、研究熱心なのと勝負ごとに対する感覚みたいなものを感じたので採用した。



コイツはとにかく人の言う事を聞かない。

言われたことをやるというタイプではなかった。



会社から預けられている立場としては、しょっちゅう叱らなければならなかったが、ディーラーとしてはその成長を一番安心して見ていられた。



稼ぎたいという欲が強く、稼いでいる人のところに片っ端からくっついて回り、色んなことを聞き出そうとする。

そして自分が知りたいと思ったことについては貪欲に学んでいた。



自分のところには都合いいときだけ(VBAとか…)、よく聞きにきていたっけ。



収益もスルスルと順調に伸びていったし、途中で壁にぶつかったときに無理をしない慎重さも持ち合わせていた(多少、慎重すぎるときもあったが)。



そして部下たちの中で最初に自分が課したハードルをクリアしたヤツでもある。





彼ら一人一人には最終的に月1000万円以上稼げるようになれと言っていた。

そこでようやく一人前だと。



この世界で生き残っていくためには必要な数字だと思った。

月200万~300万円程度のディーラーはゴロゴロいる。

業界で2000人~3000人はいると言われる証券ディーラー。



しかし、この椅子はいずれ減ることが見えていた。

地場証券経営者の多くが、東証上場を機に廃業すると言われていた。



そのときにその他大勢と同じレベルでは生き残れない。

月1000万円、年間で1億円以上。

このラインは職業ディーラーとして、彼らがいずれ来る荒波を乗り越えるのに必要と思う数字だったから。



後々、すでに自分は違う会社に移籍していたが、Hはそのハードルをクリアしたときに連絡をくれ、ご馳走させてくれと言ってきた。



すごく嬉しい報告だったことを覚えている。

そしてメシを奢ってもらった(先輩としては一応3倍返しぐらいでキャバ奢り返したけど(^_^;))。



いいメシだったな。

かつて自分が誓ったことを一つクリアできた。

そう教えてくれた後輩だった(ホント、人の言うこと聞かないヤツだけど…)。





一方で、弟子一号でもあったBくんは苦戦していた。

ヤラレはしない。

しかし、数字も伸びない。



いつまでも自分のコストを稼げるレベルまでいく気がしない状況だった。

後から入ってきたHにも抜かれ、本人も焦ってはいただろう。

そして自分もかなり厳しく追い込みもした。



真面目で責任感も強いが、勝負度胸に欠け、どこか弱腰な印象が強いBくん。

勝負して、失敗して、それを乗り越えて…そういった形で自信をつけていかなければ彼は大きくなれない。

そのためには勝負しなければいけないが、Hに抜かれていってもライバル心むき出しで頑張る…というところもなく、(元々小さい)ポジション枠をフルに使うこともほとんどなかった。



『攻める』姿勢に欠けていた。

『守る』は上手にできていたけど。



勝負の世界では攻めるべきときと守るべきときがある。

守りだけでは生き残れない。

攻めるだけでも生き残れない。



どうすればBくんが攻めることが出来るようになるか…。

自分にとっても難しい問題だった。



根本的な性格は変わらないから…(^_^;)



そこで自分は一つの提案をした。



『ロング・ショートをやってみないか?』



自分が若手の頃にやっていた手法の一つ。

その頃に作ったプログラムやシートも残っている。



地場証券で収集できるデータやExcelレベルでは出来る範囲は限られるが、ロング・ショートで求められるのは、日々のデータ分析とそれを着実に実行する根気。



Bくんには合っているんじゃないか、と思った。



そこで自分の隣に座らせて、かつて自分がやっていたロング・ショートの基本的なアプローチとVBAを教え込んでいった。



Bくんはそれをうまくこなしてくれた。



それまで全く可能性を示せなかったが、ロング・ショートを始めてから彼の数字はどんどん伸びていった。





その後も新卒や中途採用合わせて10名前後の未経験者の育成にかかわった。

月間で稼ぎ頭になったヤツもいる。

ディーラーとして挫折したヤツもいる。



ただその一人一人が自分にとってはとても大切な部下たちだ。

全員を成功させたかった。

それが無理だと分かっていても。



時としてムチャクチャ厳しい先輩だったかもしれない。

自分に泣かされたヤツも何人か(も?)いる。



ただディーラーとして相場と対峙し続けてきた自分にとって、彼らの存在は自分の仕事に違った意味を与えてくれた。



『人を育てる』



自分が育てた…というより、彼ら自身で育ち、自分は手を貸したに過ぎない。

彼ら一人一人がそれぞれの場所で頑張ってくれていることが、自分にとっての励みになる。



そしてチーフとの決別のとき、自身に課した二つの目標。

ただ全力でその目標に向かって走り続けてきた。



それをクリアしつつある中で、次の目標を見出すことが出来ずに迷いが生まれ始めていた時期でもあった。

【回想録】育成のとき…5

『R』の一件での痛み…

友人たちが独立→ヘッジファンド設立に向けて動き出す中で踏み出せない自分に対するもどかしさ…



ディーリング部全体においても決して楽な状況ではなくなっていた。

稼ぎ頭である『彼』が独立を志向していくことで一つの柱を失うことになる。そして株ブームの終焉後、不調に陥り多額の損失を抱えるディーラーも何人かいた。



そんな中で育成プロジェクトは進みだした。



まずは中途採用したBくんとK。



Bくんはおとなしいタイプ。

ディーラーに必要とされる決断力や思い切りの良さはあまりなかったが、言われたことに対しては素直であったし、地道な努力はできていた。



Kは若いだけにガツガツしたところがあり、『自分は出来る』という自信をどこか持っていたように感じた。経験もないのにそう感じるのは『過信』かもしれないが、それは相場がいずれ教えてくれるだろう。



まずは朝のミーティングを3人で始めた。



ニュースや夜間の海外市場の動きについてそれぞれに話させる。

そして見るべきポイントの修正や足りないところを話した。



次に、今日のマーケットでのポイントについて話させる。

そのうえで自分がどう見ているかを話す。



最初はシミュレーション。

外務員資格が取れるまでは仕方ない。



Bくんはシミュレーションでもたいしたことはなかった。

取ったり取られたり…シミュレーション結果を見ても、特に目を引くようなところはなかった。

傾向としては、値動きが荒いものや、トレンドが強く出ている銘柄を追えないところが見えていた。



上がると思って買う→評価益が出る→早く利益確定して楽になりたくなる→利食ってからさらに上がると手が出なくなる



そんな感じだった。



Kのシミュレーションは異常なほどよかった。

買ってヨシ、売ってヨシ。



『これは危険だな…』



と自分は漠然と感じていた。



シミュレーションで陥りがちなポイントが二つある。

一つは、値段がついただけで約定出来たことにしてしまい、自分の都合のいい方にシミュレーション結果を捻じ曲げてしまう。

もう一つは、精神的なプレッシャーがない状態でやっているから、サクサクいける。ただそこで自信過剰に陥ると、その無意味なプライドが邪魔をし、実際の相場で負けたときに負けを認められなくなり自滅する。



Kには、最初の一つはしっかりとやるように指導した。しかし、うまくいき過ぎる。妙な自信を持ち始めているのが気になっていた。



そして迎えた本番。



Bくんのトレードはほぼシミュレーション通り。やられないけど、たいして儲からない。厳しく言えば、あまり可能性を感じさせる内容ではなかった。ただ彼の武器は地道な努力。いずれ違う道もあると思うから、経験を積ませることを考えていたのであまり心配はしていなかった。



Kについては予想が的中する結果となった…。

結果は、シミュレーションの真逆。ポジション額が小さいにも関わらず、結構な損益のボラ。そして損が大きく先行していく。



本人も苛立っているのが手に取るように分かったが、若さゆえだろうか、彼には自分を律することや、自分への厳しさがどこか欠けていた。



Kは自分が育った環境についてよく文句を言っていたが、相場においてもどこかうまくいかないのを自分のせいではなく、何かのせいにしようとする傾向が見られた。



ポテンシャルはある子だったが、Bくんとは対照的にこらえ性がない。



ある朝のミーティング。



Kはいつも出社が遅かった。

指導者である自分よりも遅いのが当たり前。



そしてその日はミーティングが始まる時間になっても来ておらず、とりあえずBくんと二人で始めた。



そして遅刻してきたK。



『やる気ないならやらないでいいぞ。』



と自分は冷たく突き放した。

その反応は自分の予想とは大きくかけ離れていた。



『分かりました。やめます。』



そのまま会社を飛び出していってそれきり…。

Bくんが青ざめた顔して追いかけていって、何とかとりなそうとしたが、ふてくされたKはそのまま帰ってこなかった。



Bくんは何とか自分にたいしてKの取った行動をかばおうとしていたが、



『ここは学校じゃない。俺が先生なら追いかけるが、給料もらってディーラーという仕事を学ばせてもらっている状況で、自分から投げ出したヤツを追いかける必要はないし、それをしてもアイツのためにもならない。』



と自分は突き放す。

そのままKは辞めていった。



残ったのはBくん一人という状況だったが、その後も面接は続けていき、後にOとHという困ったちゃんの採用を決めた。



ちなみにその頃の自分の収益はやはり全体としては落ち込み、月間1億円という水準をなかなか越えられなくなっていた。

月間損失はなかったが、一番悪かった月が240万、一番いい月が9千4百万程度。ならしてみると大体月に5千万程度まで落ち込んでいた。



スランプというレベルではなかったが、友人たちがシンガポールへ旅立つ中で取り残されたという思いもあったせいか、どこか少しずつ焦りを感じ始めていた…。


【回想録】育成のとき…4

『R』のことは自分の中にも大きな影を落とした。

しかし、すでに未経験者のB君とKは入社し、育成プロジェクトも動き始めていた。
自分には立ち止まっている余裕はなかった。

そしてこの頃、ファンド立ち上げについて『彼』が本気で考え始めていた…。

地場証券ディーラー出身のヘッジファンドといえば、真っ先に出てくるS氏。

自分の一世代上の先輩で、色んな面で伝説を残した人。

まだ若手立った頃、兄貴やチーフに連れられて何度か会ったことがある。当時は雲の上の存在だった。

S氏はヘッジファンドを立ち上げてシンガポールにいた。

『彼』も自らヘッジファンドを起こすべく動き始めていた。

当時、『彼』とO証券のKさん、A証券のNといった先物手口上位の常連メンバー四人で月に一度飲みに行っていた。

全員力のあるプレーヤーだったから、『彼』の影響もあってヘッジファンドへの転身を考え始めていた。

その中で一人踏み切れない自分。

育成プロジェクトは自分の提案で会社が動いてくれたこと。始めかけの段階で投げ出す訳にはいかなかった。そして既に採用されている二人の若手。

チーフ達との決別のときに誓った『人を育てる』ということ。

自分はその時期動く訳にはいかなかった。

自分も挑戦したい…その思いを拭い去りきれないままだったが、今はやらなければならないことに集中しよう。

そして彼らはシンガポールに渡っていった。
今もシンガポールでヘッジファンドをし、『彼』は日本人ヘッジファンドの中でも注目される存在にまでなっている。

12月24日に投稿したなう



クリスマスイブなのに一人で松屋の豚めし…
12/24 19:09

【ビジネス】自主廃業

今日はクリスマスイブ。

にも関わらず、ある地場証券で自主廃業の発表があったようだ。
まだその会社にはディーラーも結構な人数がいる。

そこの経営としては、3月期末にかけてまだいくつか自主廃業が出てくるから、早めにすることで転職しやすくしてやりたいとの意向があったようだが…キツイ話だ。

懸念していたことが現実のものになりつつある。

若い子達の将来をがそんな形で閉ざされてしまう。
力をつける前の子達。

知り合いもろくにいないでは厳しいだろう。

自分の厳しい体験から始めたマーケットフォーラム。
つながりの大切さを思い知ったから、交流の場を作った。

今の自分に何が出来るだろう。
立ち上げたばかりのファンド。

まだ非力過ぎる。
もっと早くやっておくべきだった。

そんな切ない気持ちでクリスマスイブを過ごすことになりそうだ。

【回想録】育成のとき…3

その頃、育成プロジェクトも動き始めた。



ただ社内採用はなかなか思うようにいかず、中途採用に限ってのスタート。

ディーリング部長、人事部長に加え、自分と『彼』で面接をしていった。


全部で十数名は面接したかな。


自分が重視していたのは単純に『やる気』。

半端なヤツでは困る。


ディーラーのイメージを就業時間短くて、うまくいけばエラク稼げる…程度の意識で見ているヤツも少なくなかったから。



どちらかといえば圧迫面接系だったかも…(と後々部下に言われた(^_^;))


質問もなんてゆーか、答えづらい質問が多かったと…。



まぁ…色んなヤツがいた。


面接のときは自分の方が厳しいこと言っていたけど、『彼』のメモをチラッとみると『論理的思考能力ナシ』とか、結構キツイこと書いてたな(笑)



採用したのは引きこもりのB君とまだ20歳ソコソコのヤンチャなK君。



B君はあまりディーラーとしてセンスで勝負するようなタイプではない。決断力とか、臨機応変に対応する器用さとかは感じられなかったが、根気よく努力することは出来そうだったから。



K君は若かったが、要領は良さそうだし、ガッツもありそう。若干、屈折してる感はあったが…ま、若いウチはね(^_^;)




で、その二人の採用も決まり、育成プロジェクトが始動した頃…。



『R』は正念場の3ヶ月目を迎えていた。



最初は約束通り慎重に売買をしてくれていた。
金額も落とし、コツコツと…。



何日かが過ぎたとき、『R』がコツコツと積み上げた利益を飛ばしてしまった。そのときはまだ決めたルールの中でやっていたが、かなりテンパった表情をしていたから嫌な予感がして



『焦るなよ。月末にプラスで終われればいいんだから。』



と声をかけた…しかし、不安は的中した。


翌日の前場終わったとき。



『すいません。やっちゃいました。』



たいして動いていないマーケットだったが、1000万超の損失。
完全に熱くなって、動きのない中で大玉振り回してしまったようだ。



そして引け後に『R』は自分にたいして



『同じ契約であるあなたにポジションなどを制約されるのはおかしい。』



と言い始めた。
完全に自分を見失ってる…そう思ったが、本人は全く耳を貸さない。


会社に理解してもらうためにどれだけ自分が苦労したか…。


それまでも何度も『R』にたいして自分、『彼』、『R』の同期の友人…みなが心配し、焦るなと伝えようとしてきた。

それにも関わらず、その手を振り払おうとする『R』。



『自分という壁を取り払ったとき、会社がどういった判断をするか分からないぞ。それでもいいのか?』



と自分は聞いた。



『それでもいいです。自分は一人前の契約ディーラーとしてここにいるんだから。』



と彼は答えた。


思いが伝わらなかったこと…。
指導しきれなかったこと…。
可能性があると信じていたヤツがこのままつぶれていくこと…。


色んな思いが錯綜して、気づいたら自分の目からは涙がこぼれていた。



その後、部長に謝りにいき、その旨を報告した。


会社側の動きは早かった。

すぐに本人は人事部長と面談することになり、月内の解雇もありえると通告されたようだ。



そして事件は起こった。



その日の引け後。
まだ15時過ぎ。先物ディーラーである自分はまだ勝負が続いていた。
225先物を200枚ロング。
隣に座っていた『R』が



『すいません、お話があるんですけど。』



『何?』



相場に苛立ち、ポジション抱えている中、声をかけてきた『R』に苛立ち、そして前日の『R』の言ったことに愛想がつきていた自分。


もういいやとばかりに先物200枚叩き売ってから



『何?』



ともう一度聞いた。



『自分はあなたを慕ってこの会社に来たのだから、最後まであなたにみてほしい。』



昨日とは全く逆のことを言い出した。
テンパって、熱くなって、自分を見失い…『R』を思いやり、守ろうとする手を振りほどいた…にも関わらず、いざ解雇の話が出て現実を思い知らされたのだろう。



そして自分はキレた…。



気づいてみれば机を蹴っ飛ばし。


『R』を怒鳴りつけていた。



部長や本部長が間に入って収めようとするが、自分は



『黙っててください!』



とそれを押しのけ、



『甘ったれんな!』



と叫んでいた。
『R』は怯えた表情をしていた。



自分が自分より弱い立場の存在に対してキレたのは後にも先にもこの一度だけだ(仕事では…)。



すごくつらかった。
とても痛かった。


誰よりも期待し、誰よりも守りたいと思っていたヤツを自分が傷つけた。



夕方、『R』の同期だったヤツが飲み付き合ってくれた。
一人でいる気分じゃなかったし、コイツには救われたかな。


若手の自分がチーフと争い、決別したあのときに負けないぐらいツライ出来事だった。



『R』は優秀なヤツだった。
人間性もいい。素直な面もあるし、謙虚だし。
今でも年賀状のやり取りぐらいはしているけど、何かあれば力になってやりたいとも思う。
また道が違えば成功もする人材だと今でも信じているし、そう願っている。



ただ相場の中に入ると自分を見失う。
感情でトレードしてしまう。
勝負事には向かないタイプだったのだろう。



心は熱く、頭は冷静に。


相場で生き残るためには



『常に自分は間違いを犯す』



ということを知っておく必要がある。
相場で戦っていて、全勝するなんてのはまず不可能だ。
負けることがあってもいい(というより当たり前)。



大事なことは最終的に安定的に稼げていること。


そのためにはロスカットも大切だし、損を出したときに『何故間違えたのか』を客観的に理解する努力をしなければならない。



彼はそれが出来なかった。
やられたことに怒り、そのまま冷静さを取り戻さないまま、取り返したいという自分の都合でリスクを取りにいっていた。



自分がチーフから教わったことの一つに



『三つのC』



というのがある。



『Control』…コントロール。


自分が思うにコイツは一番重要。コントロールにもいろいろある。


 『メンタル・コントロール』…精神的に自分をある程度コントロールする。自分を見失わないこと。


 『ポジション・コントロール』…過剰なリスクを取らない。逆に過小なリスクでもダメ。自分が目指す収益(リターン)に対して適正なリスク量であるべき。また相場のボラティリティや流動性に対して、適正なリスク量にする必要もある。


 『P&L・コントロール』…P&Lなんてコントロールできないというのは違う。儲かっているときと、ヤラれているときの戦い方は変える必要がある。儲かっているときはより積極的に。ヤラれているときはより保守的に。中にはヤラれているときほど大きなリスクを取るヤツがいる。これは完全に危険なプレーヤーだ。『損を一発で返して楽になりたい』から過剰なリスクを取る。明らかに自分の都合で相場に入っている。損が出ているということは、それだけ相場が見えていないのだから、そこを調整できるまでは慎重にやるべき。このコントロールが出来てようやく損益は安定的になっていく。




『Concentration』…集中


集中力を持続させること。相場は我々にとっては戦場。そこで気を抜いたり、雑な売買をすればそれは損失につながる。また誤発注のリスクにもつながる。




『Confidence』…自信


ここでいう自信というのは単なる度胸とか、自信過剰であることではない。自信というのはそれだけの努力や分析に基づいているからこそ生まれるもの。ニュースもチャートもロクに見ず、相場に対して思考停止状態で、ただ大きなリスクを取ることが自信ではない。

自分はどちらかといえば臆病なぐらいの方がディーラーには向いていると思う。怖いから調べる、分析する、考える。だから決断できる。

『相場は度胸』と単純に言い切るのは危険だ。『勇気(度胸)』は必要だが、裏付けのないまま、ただ大振りして勝ち続けられるほど相場の世界は甘くはないのだから。



自分は後輩たちに『自分を信じる=自信』。


そういられるために努力を惜しむなと言ってきた。



『R』のときの経験が、その後育成に対する自分の考え方に少なからず影響を与えたかもしれない。


人を育てること、特にディーラーを育てることは本当に難しい…。

【回想録】育成のとき…2

『R』が入社したのは20日。

外務員資格が2~3日程度でおりるから、その月はトレードするにしてもわずか数日。




『すぐにやりたい』




という彼の気持ちも分かるから、すぐに始めることを止めはしなかった。




『最初は無理するなよ。システムなんかも不慣れなんだからならし運転で構わないから。』




と話したうえで。




席は自分の隣。

部長にお願いして自分の横に座らせることにした。

それだけしっかり見ていてやりたかったから…。




でもただの新人ではない。

外資系で数年の経験を持ち、プロップではなかったものの、それなりにマーケットで生きてきた『R』。




会社も期待していたし、最初からそれなりのポジション枠を付与してくれていた。

ロスカットは月間▲2000万円まで。




自分もイチイチ報告させるとか、指導するというより、基本は任せて要所要所でマーケットのことを話したり、彼が知らないことを伝えられれば…というぐらいに考えていた。




それが甘かった…。




売買を開始して4日後。

『R』はいきなりロスカット額▲2000万に達してしまった。


正直…『え!?』とあまりに想定外の状況に驚いていた。




外資系で大きな金額でやっていたから、そういう感覚のままやってしまったのだろうか?

あまりに短い期間であったし、トレード内容の提出などはさせずに任せる方針でいたから、何がどうしてそうなってしまったのか自分には把握できていなかった。




まぁ、自己運用は初めてだし、緊張もし、慣れない環境でそういったこともある。

俺だって合併直後の会社で初日に▲1000万の損失を出したこともあるし…(^_^;)




そう切り替えて翌月。




『焦らずにいけよ。取り返そうなんて思わなくていい。まずは今月をプラスで終わることが出来ればいいんだから。』


と話してスタート。




自分もさすがに気にするようにはしていたが、場中にアレコレ言うのはできないから、そこは部長に任せた。


その月が始まって一週間ぐらいだったかな?


部長に相談された。


『R』が流動性の薄い銘柄でエライ大きくポジション取っているとのこと。

今は評価益が出ているが、心配でしょうがない…とのことだった。




『ま、評価益が出ているならあまりアレコレ言わない方がいいんじゃないですか?さすがに本人も分かっているでしょう。』




そう答えたが、部長は心配で本人に話したようだった。

少しポジションを落としてほしいと。




しかし、部長の心配は少し遅かったようだ。

翌日にはすでに損失が出ていた。

板を見る限り投げるに投げれない状態…。


結果、また大きな損が出てしまい、まだ2週間以上残した状況でトレード・ストップ。




部長に言われたことや損失が続いたことで『R』は苛立っていた。

明らかに心配な状態だった。




何故、そんなにテンパっているのか…。

とりあえず話をしなければ…。

そして飲みながら色々と話してみると…。




1000万以上あったはずの貯金は既に使い果たしてしまっていた。

そして住んでいる家が家賃20万円以上なのに基本給は20万円しかない。




そういうことか…。




とりあえず月々の生活を何とか出来るようにしなければならない。

金を貸すことは避けたかった。


そこで自分が(会社の許可をもらって)やっていた某金融情報会社のコラムを少し手伝わせることにした。

そしてその収入の9割を彼に渡す形で同社との再契約をしてもらった。




これで生活はなんとかなるはず…だった。


あとは本人の焦りやいら立ちを切り替えさせなければならない。

そこで自分も有給を取ってシンガポールに連れて行くことにした。




向こうの友人たちを紹介したりしながら

『いつか自分もヘッジファンドを立ち上げたい。そういうチャレンジをしたいと思っているんだ…。』

そんな夢を語りながら、将来のための第一歩なんだから焦るなよと伝えたかった。

夢を持てれば、今の苦境にも耐えてくれるんじゃないかと思ったから。




そして本人も気分転換になったのだろうか?

少し明るい表情になり、いつか自分も一緒にそういうチャレンジをしたいと言ってくれた。


そして翌月を迎える前に、同じ失敗を繰り返させないためにいくつかの約束をさせた。




ポジション枠を会社に減らされるとあとで戻すのが難しくなる。

だから自分でテーブルを作らせた。


いくら儲かるまではこの金額でやる。

そしてそれを超えたらここまで増やす。

そんな段階式のテーブルだ。




それを自分で決めさせることで、『R』の意思を尊重し、そのうえでそれを会社に提出して自分がみるからもう少し様子を見てやって欲しいとお願いするつもりだった。




そしてもう一つ。




わずか二か月(実働は一ヶ月)で『R』が出した損失は▲4000万ほど。

それを自分が背負うつもりでいた。

そして『彼』も一緒に背負ってもいいと言ってくれていた。


自分と『彼』の手取りは1000万単位で減ることになるが、それもしゃあないだろう、と。

それを二人で部長に申し出た。




しかし、他にも損失を出しているディーラーはいる。

何故、『R』だけがそんな形で守られるのか?

そこに対する説明がつかないという理由で、それは断られた。


会社や部長は、そこまで我々に負担させるべきではないとの思いやりだったのかもしれない。




それだけ自分も悩み、自分自身のトレードより『R』のトレードが心配だった。

自分の1000万の利益より、『R』の数十万の利益の方が嬉しかった。


そして自分だけではなく、『彼』や『R』の友人も含めて、みんなで彼を諭し、励まし、3ヶ月目を迎えることになった。

プロフィール

tetsu219

Author:tetsu219
元証券ディーラーです。
二十数年ディーラーやって、シンガポールにも一時期行ってヘッジファンドを立ち上げてみたりと色々やってきて、とある証券会社でディーリング部長になり、今はシンガポールでヘッジファンドの設立・経営をやっています。

基本仕事ネタです。
更新は気が向いたときだけ(^^;
でもこのブログを通じて運用を志す若い世代の人たちに何か伝えられること、その一助になればと思っています。

初期は限定記事にしていましたが、今は開き直って全部公開にしてますのでお気軽に(笑)

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